tofubeats『FANTASY CLUB』

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tofubeatsの通算4枚目、1年8ヵ月ぶりのアルバム『FANTASY CLUB』がリリースされた。多彩なゲストを配した前作までと対照的にフィーチャリングを2曲に抑えた本作は、ところどころ棘を含みながらも全体的にはフラットな雰囲気で統一され、この国で生きる人にとっての普遍的かつシンプルなメッセージを発している。過去最高に聴きやすいアルバムだと思う。では、その普遍的かつシンプルなメッセージとは何か。本作以前のディスコグラフィとの比較を通して考察する。

 

その前に、以下、ちょっとした苦言。

今作のインタビューにおいてtofubeatsは、しきりに「わからない」と口にしている。アルバムの受け取られ方であったり個々の楽曲であったりその矛先はインタビューによって変わるが、とにかく彼がアルバムの全貌を掴めていないということは理解した。それが証拠に「早く世に出て(このアルバムのことを)わかりたいですよ、レビューとかみんなの反応を読んで」とも語っている。*1

しかしちょっと待ってくれ、恐らくは楽曲やアルバムの意図について最も詳しい当事者が「わからない」と言っているものについてなんて、そんなの、こちらだってわかるハズはないのだ。だってあんたが一番詳しいハズなんだから。こちらに答えを委ねられたところでなぁ、という気持ちになる。tofubeatsの言を借りるならこのアルバムは「「わからない」と真剣に向き合ってみよう」としたアルバムなのだという。*2

ならばそれでいいじゃないか。なんだ、もう当人によって答えは出されている。それでいいしそれがいい。当事者の預かり知らぬ何かを言い当てるなどとてもじゃないが無理だ、よしてくれ。

と言ってしまうと本末転倒もたいがいなので、ここから本題です。

 

一口に『ポジティヴ』『ネガティヴ』と言っても『ネガティヴ由来のポジティヴ』『ポジティヴ由来のネガティヴ』がある。人間とはとかくややこしい。周辺環境から受ける感情(インプット)に対してどのような発露(アウトプット)をするかを検討する際、必ずしも両者がイコールになるワケではないのだ。

『ネガティヴ由来のポジティヴ』というのは言うなれば「笑うしかない」とかいったアレだ。やっちまった、もう無理だ。やっていけない。といったときに浮かんでしまう笑み。これに近い。インプットはネガティヴだがアウトプットはポジティヴ。

対して『ポジティヴ由来のネガティヴ』というのは開き直りが該当するだろうか。「ゆとりですがなにか」的な。満足している状況を揶揄する何者かに向ける開き直り、インプットはポジティヴ、アウトプットはネガティヴ。

これまでのtofubeatsディスコグラフィ『lost decade』『First Album』『POSITIVE』は全て前者をモチーフとしているように思う。特に「POSITIVE feat.Dream Ami」にはそれが顕著だ。 

未来には期待したいし

(POSITIVE feat. Dream Ami)

「未来には期待したい」というのは、過去・現在に期待が持てない/持てなかったことの言い換えだ。エンターテインメントを志向するtofubeatsの元来の気質と、(特にメジャー進出以降は)マーケットからの要請によって、周辺環境がどんなものであれ、アウトプットはポジティヴにせざるを得なかったのがこれまでだ。

メジャー進出以降のtofubeatsのアルバムは、端的に言って壊れていた。トラックメイカーとしての矜持と、ポップスの担い手としての責任のバランスを取ろうとした結果、『First Album』はヴォーカルトラック8曲の後にインストが4曲連打される極めて躁鬱の激しい構造になったし、対して『POSITIVE』はその反省、または市場動向を踏まえたからかヴォーカルトラックが大幅に増加し、言葉数も増えた。しかし、トラックメイカーとしての側面は大きく後退した。と、思う。

ここで一つ、きわめて私的な体験の話をする。筆者は2014年に開催されたイベント『YEBISU MUSIC WEEKEND』にて彼のDJセットを見ているのだが、その時の彼はなんとも居心地が悪そうだった。当時は『First Album』発売間もない時期で、前半は種々の楽曲のミックス、後半は「Don't Stop the Music」「ディスコの神様」「水星」など、自身の曲を連打していた。「これから自分の曲かけるんで」とわざわざ前置きをしてからターンテーブルに向かう彼はその頃から、さきほど挙げたトラックメイカーとしての矜持とポップスの担い手としての責任の間でどういったスタンスを取るべきか悩んでいたのではないか。

さあ、ここでそろそろ2017年に立ち返ろう。バック・トゥ・ザ・フューチャーだ。彼のスタンスはこの3年で大きく変わった。

さて、『FANTASY CLUB』だ。ここで彼の楽曲のスタンスが『ネガティヴ由来のポジティヴ』から『ポジティヴ由来のネガティヴ』に転換する。歌われている内容にそれが顕著だ。例えば、本作の歌詞には否定の語句「ない」がとても多い。

何かあるようで何もないな

(SHOPPINGMALL)

何が食べたいとか
そのくらいも決められないなら
欲してるもの 手に入れられてるかって
もうそんなの気にしないで
もうそんなの気にしない

(WHAT YOU GOT)

どこか遠くに行ったところで
動けないのさ

(BABY)

「何もない」「決められない」「動けない」等のフレーズは、それだけ見ればとてもネガティヴ。しかし『FANTASY CLUB』というアルバムはネガティヴ一辺倒なのか?と言われれば、それはNOだ。ポジティヴな感覚が完全に陰を潜めたわけでは決してない。 

寒い夜や暗い日々が
辛いだけじゃないって知ってた

(LONELY NIGHTS)

「辛い」を部分否定する形で「だけじゃない」という言葉が配置されることで、ネガティヴさだけでなくポジティヴさも醸し出されている。ポジとネガが同居することによって、結果的に、「どちらに振れればいいかわからない」「どっちつかず」な姿勢への開き直りが立ち現れてくる。「気づかないでいい」と外に向かって語りかける「CHANT #1」と、「FANTASY CLUB」への加入/感知を望む自分語りの「CHANT #2 (FOR FANTASY CLUB)」の対比もまた「どっちつかず」といった印象を強める。

二項の対比は歌詞においてだけでなく、トラックや曲構成でも行われている。神戸という明確な都市とその盛り上がりを想定することによる無尽蔵なアップリフティングが特徴的な「THIS CITY」と、ピークといったピークが配されることなく、曖昧模糊とした音色も多い「FANTASY CLUB」のペアがそれだ。

これほどまでに相反する主張を曲中やアルバム全体に混在させる様子は以前のtofubeatsには見られなかったものだ。少し話が逸れるが、なぜこうした転換が起こったのかについても触れておきたい。個人的には、外向きから内向きへ視点が変わったからだろうと考えている。「みんなのためのアルバム」ではなく「tofubeatsのためのアルバム」を作り、みんなにどうなってほしいかではなく、自分はこうであるということを描写したのが本作なのではないだろうか。アニメ『クラシカロイド』の楽曲制作など、このアルバムの製作期間中にいくつかの外仕事をこなしていたこともあってか、『自分名義でポップなものを作らなければならない』といった責任から多少は逃れることができたのかもしれない。いずれにせよ、『FANTASY CLUB』は史上初めての自分語りアルバムと言って差し支えないだろう。

 

話を本題に戻そう。ことほど左様に『FANTASY CLUB』というアルバムは言葉・音の双方においてわかる/わからない、の間で佇んでいる。そして「そんなの気にしない」と開き直り、肯定してすらいる。そういえば、「FANTASY CLUB」の着想の元であるPierre's Fantasy Club「Dream Girl」、そのジャンルはシカゴ・ハウスだ。ハウスミュージックもまた、ゲイという「どっちつかずと見做されるが故に生きづらくなってしまった」人たちを肯定するための音楽ではなかったか。この「どっちつかずの肯定」というテーマにおいて想起されるのは、星野源「夢の外へ」だろうか。「僕は真ん中をゆく」と歌った星野源とのオールナイトニッポンにおける邂逅が必然であったのだと、僕らはここでようやく思い知らされる。

今作のインタビューにおいてtofubeatsは、しきりに「わからない」と口にしている。し、アルバム内で「わからない」という状態のままであることを肯定してもいるということは先に述べた。しかし一口に「わからない」と言っても2つのパターンがある。考えた上での「わからない」と、ハナから思考停止している「わからない」だ。以上二つに「わからない」という言葉の意味を分類することで、『FANTASY CLUB』の持つテーマをもう一段掘り下げることができる。本作をすでに聴いた方なら、tofubeatsがどちらの「わからない」を志向しているかは理解できるのではないだろうか。「LONELY NIGHTS」の歌詞を見てみよう。

頭使っててもまた間違う

(LONELY NIGHTS)

人の心も、何がリアルかも、わからない。だからこそ、考えることにtofubeatsは価値を置いている。逆に言えば「わからなくてもいい」と開き直るtofubeatsであっても、あらゆる「わからない」を認めているワケではない。なぜなら「わからない」という言葉には「考えない」の言い換えに過ぎないものも含まれるからだ。特定の文言を道標にできる人達であれば、決断に至るまでの道筋を「考えない」生き方もナシではないのかもしれない。しかし、特定の宗教を持つ人が他国と比べてわりあい少ない日本において、多くの人が決断の拠り所にするのは自分自身の思考でしか有り得ないのだ。

 

結果が「間違い」でも「わからない」でも「どっちつかず」でも、いい。大事なのは自分なりの正解を出すために考え続け、そこで生まれた答えを信じること。ともすれば陳腐にすら聴こえうるメッセージがちっともそう聴こえないのは、今挙げたことを実践できている人がそう多くないからだろう。ネガティヴの裏返しからくるポジティヴの過剰を逃れたtofubeatsは、本作で両者を混ぜ合わせることでわからなさを肯定し、自己決断の在り方を問い直すに至った。最高傑作だと思う。

神なき世界で人はどう生きるか。『FANTASY CLUB』にはそのヒントがある。


まっつ(@HugAllMyF0128

椎名林檎『椎名林檎と彼奴等がゆく 百鬼夜行2015』

以前観た『(生)林檎博’14 ―年女の逆襲―』同様、ライブ映像作品として優れていると感じたのでとりあえず思ったことを羅列しておくね。

  1. 現時点において日本で最高級のプレイヤーが集まっている
  2. ただでさえ評価された楽曲を演奏しているにも関わらず、ほぼ全曲に新たなアレンジを施している
  3. 音楽的にそこまでやっているにも関わらず、映像もかなり作り込む
  4. さらに本人もコスプレする
  5. しかもかなりエロい衣装でコスプレしてる
  6. その上ゲストもいる
  7. 振り付けはMIKIKO
  8. ただでさえ29曲も演奏する
  9. これだけやっておきながらホールツアー
  10. おまけに同じホールを借りて無観客で10曲も追加収録してる
  11. これが7020円で買える(amazonだと5000円台からある)
  12. アホか

 本当に馬鹿なんじゃないの?どう考えても釣り合ってない。余計なお世話なのはわかっているが、きちんと利益が出たのか心配になるほど豪華絢爛であると同時に細かな部分まで作り込まれたとんでもないライブ映像集である。

選曲は「百鬼夜行」の名の通りおどろおどろしい曲が中心で、序盤に「そうだ、樹海に行こう」というとんでもないコピーが演出で登場するほど初期を思わせる悪趣味な感じがするのだが、一方でどこか参加メンバーを思わせる曲もあった。近年の『三文ゴシップ』『日出処』からが割合的に多い気がするものの、東京事変の前期/後期の曲もやったり初期の曲もやったりとファンから「神セトリ」と呼ばれたことも頷ける。

またファンにとってはすでにお馴染みであるのだが、それはもうエロいコスプレをしてくれる。初期を知る人には懐かしい「本能」の時のナース姿もやるし(でも本能はやらない)、中盤ではドキッとするような脱ぎっぷりを見せてくれる。ただインタビューで「男性向けと思ったこと1回もない」と話している通り、エロいと言ってもサザンオールスターズのような露骨な健康的なエロは皆無で、例えば安野モヨコのマンガに出てくるようなフェティッシュなエロさで、それこそ女性が喜びそうな美しさなのだが、男性が見ても普通に興奮する。

ただそんな神セトリで、なおかつアホみたいに敏腕のミュージシャンと一緒にアレンジまで作り込みながら、同時にアリーナ公演でも通用するような映像も映し出し、なおかつエロい衣装で客前に出てくる。サービス精神旺盛を通り越して病的ではないのか?

そしてその姿が例えば僕の中では去年の小沢健二と重なるし、さらに言うなら往年のサザンとも重なる。自分の楽曲にある程度の自信はあっても「それだけで通用するほど甘くない」という徹底した過小評価が彼女の根底にあるのではないか。そしてそれは自信ある新曲を作り上げたにも関わらずスクリーンで歌詞を映し出し、なおかつリピートしてお客にも歌わせる小沢健二や、ドーム公演が状態化して演出家状になっている桑田佳祐とも重なるのだ。

自信の楽曲に対する過小評価と、それを補って余りあるとんでもないライブだった。通常盤のパッケージがしょぼいとかもう忘れました。必見でござんす。


ぴっち(@pitti2210

tofubeats『FANTASY CLUB』

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tofubeatsの『FANTASY CLUB』をずっと聴いている。正直に言うと、このアルバムはtofubeatsの最高傑作ではないと思うし、おそらく現時点における彼の最高傑作は『lost decade』なのだが、ただ滅茶苦茶いいのだ。

今作は前作の『POSTIVE』やさらに前の『First Album』と比べるとJ-POPの要素が薄い。一応ゲストボーカルもいるのだが、どちらかと言うとYOUNG JUJUはラッパー、suger meはコーラスとしての側面が強く、あまりJ-POPらしい曲が見当たらない。日本語のポップミュージックと言えばその通りなのだが、歌謡性は薄く、ヒップホップやハウスを行ったり来たりしている印象が強い。

またゲストボーカルの意味合いが少ない反面、tofubeats本人が歌う比率が以前より大きい。いつも同様オートチューンを用いているのだが、前に出ようとする意志が強い。前だとたとえば『ディスコの神様』のカップリングのデモ版の「衣替え」で申し訳程度に歌い(でもすごく良い)、アルバムではBONNIE PINKが歌ったりしていたのだが、今作の「SHOPPINGMALL」「CALLIN'」「WHAT YOU GOT」「BABY」といった曲は「tofubeats自身が歌うこと」を想定して作られているかのようだ。実際、力強く歌っている。

それにしてもこのアルバムを聴けばワーナー以降のtofubeatsに何があったか察することができるし、WIREDのインタビューを読むと良いことも悪いこともあったというか、どちらかと言うと悪いことの方がたくさん起こって、それに対する怒りとか葛藤とか苦しみが多かったように思える。ただ、それでも「BABY」で

ドキドキは今以上のBABY

と歌っていることが、4年前の「LOST DECADE」での

ドキドキしたいならこれを
ワクワクする瞬間このときを
わすれないで
わすれないで

と重なっていて、もちろん変わるものもあるけれど、音楽で一番大事なこの部分を忘れていない事実にぐっとくる。

あと個人的にはやっぱりフランク・オーシャンの『Blonde』と重ねて聴いていた気がする。単純な物量でいい切れる話ではないけど、もしtofubeatsが数年以内に『First Album』『POSTIVE』のように多彩なゲストと共演しながら、同時に『FANTASY CLUB』のような内省的なアルバムを作ることができたら。いや、ただの妄想でした。


ぴっち(@pitti2210