欅坂46論 第2章 欅坂46はアイドルを超えられるのか?

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  第1章では欅坂46が"再開発"をテーマとしたアイドルであること、そして"再開発"のテーマは堤清二が森稔に、六本木waveがメトロハットに変わるといった"世代交代"のテーマも孕んでいると書いた。

 そして私はこの"世代交代"は、今までのアイドルと欅坂46であると考える。これを語るには"今までアイドル"がどうであったのかを振り返る必要性がある。少々長いがアイドルの歴史を見てみよう。

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欅坂46論 第1章 なぜ欅坂46は渋谷を歌うのか?

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はじめに

 本稿では欅坂46というアイドルグループを扱おうとしている。AKB48の総合プロデューサー秋元康が「乃木坂46 新プロジェクト」として手がけ、2015年の結成以降、1stシングル『サイレントマジョリティー』では女性アーティストのデビューシングル初週推定売上記録を塗り替え、さらにその年の第67回NHK紅白歌合戦に出場するなど、すでに人気グループの一つになった欅坂46。この経緯から欅坂46乃木坂46の妹分ととして捉えられるかもしれない。しかし双方の在り方やその出で立ち、活動のスタンスを見ていくとまったく別物として捉えた方がいい。現在、秋元康が手掛けるAKBグループや過去に手掛けたアイドルグループに比べると明らかに異質な存在であると言ってもいいだろう。

 例えば乃木坂46だと「リセエンヌ」というのを一つの軸として活動を行ってきた。リセエンヌといえば、フランスの中・高校生の女の子という意味であり日本では1983年雑誌『オリーブ』の12月3日号「オリーブ少女は、リセエンヌを真似しよう。」特集から広まったファッションである。これをコンセプトに使った乃木坂は"可憐で美しい"ことを最大の特徴としており、メンバー内でも白石麻衣西野七瀬松村沙友理などが女性雑誌専属モデル、レギュラーモデルとして活躍している。

 それに対し欅坂46乃木坂46のような清楚で可憐というイメージはない。制服というより軍服をイメージしたような服装を身にまとい、楽曲の中では笑顔を見せることなく可憐さ、可愛さよりもクールな美しさを前面に出している。まるでその姿は何かに立ち向かう戦士のようにも見え、また歌詞に関しても常に大人を敵対しながら自分の主張が正しいと私たちに訴えかける。

  はたして欅坂46とは一体何者なのだかろうか?そんな質問を頭の中で巡らせながら彼女たちの活動を見ていくとあることに気付かされる。欅坂46は"ある場所"をテーマとして扱っている。その場所とは渋谷である。

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tofubeats『FANTASY CLUB』

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tofubeatsの通算4枚目、1年8ヵ月ぶりのアルバム『FANTASY CLUB』がリリースされた。多彩なゲストを配した前作までと対照的にフィーチャリングを2曲に抑えた本作は、ところどころ棘を含みながらも全体的にはフラットな雰囲気で統一され、この国で生きる人にとっての普遍的かつシンプルなメッセージを発している。過去最高に聴きやすいアルバムだと思う。では、その普遍的かつシンプルなメッセージとは何か。本作以前のディスコグラフィとの比較を通して考察する。

 

その前に、以下、ちょっとした苦言。

今作のインタビューにおいてtofubeatsは、しきりに「わからない」と口にしている。アルバムの受け取られ方であったり個々の楽曲であったりその矛先はインタビューによって変わるが、とにかく彼がアルバムの全貌を掴めていないということは理解した。それが証拠に「早く世に出て(このアルバムのことを)わかりたいですよ、レビューとかみんなの反応を読んで」とも語っている。*1

しかしちょっと待ってくれ、恐らくは楽曲やアルバムの意図について最も詳しい当事者が「わからない」と言っているものについてなんて、そんなの、こちらだってわかるハズはないのだ。だってあんたが一番詳しいハズなんだから。こちらに答えを委ねられたところでなぁ、という気持ちになる。tofubeatsの言を借りるならこのアルバムは「「わからない」と真剣に向き合ってみよう」としたアルバムなのだという。*2

ならばそれでいいじゃないか。なんだ、もう当人によって答えは出されている。それでいいしそれがいい。当事者の預かり知らぬ何かを言い当てるなどとてもじゃないが無理だ、よしてくれ。

と言ってしまうと本末転倒もたいがいなので、ここから本題です。

 

一口に『ポジティヴ』『ネガティヴ』と言っても『ネガティヴ由来のポジティヴ』『ポジティヴ由来のネガティヴ』がある。人間とはとかくややこしい。周辺環境から受ける感情(インプット)に対してどのような発露(アウトプット)をするかを検討する際、必ずしも両者がイコールになるワケではないのだ。

『ネガティヴ由来のポジティヴ』というのは言うなれば「笑うしかない」とかいったアレだ。やっちまった、もう無理だ。やっていけない。といったときに浮かんでしまう笑み。これに近い。インプットはネガティヴだがアウトプットはポジティヴ。

対して『ポジティヴ由来のネガティヴ』というのは開き直りが該当するだろうか。「ゆとりですがなにか」的な。満足している状況を揶揄する何者かに向ける開き直り、インプットはポジティヴ、アウトプットはネガティヴ。

これまでのtofubeatsディスコグラフィ『lost decade』『First Album』『POSITIVE』は全て前者をモチーフとしているように思う。特に「POSITIVE feat.Dream Ami」にはそれが顕著だ。 

未来には期待したいし

(POSITIVE feat. Dream Ami)

「未来には期待したい」というのは、過去・現在に期待が持てない/持てなかったことの言い換えだ。エンターテインメントを志向するtofubeatsの元来の気質と、(特にメジャー進出以降は)マーケットからの要請によって、周辺環境がどんなものであれ、アウトプットはポジティヴにせざるを得なかったのがこれまでだ。

メジャー進出以降のtofubeatsのアルバムは、端的に言って壊れていた。トラックメイカーとしての矜持と、ポップスの担い手としての責任のバランスを取ろうとした結果、『First Album』はヴォーカルトラック8曲の後にインストが4曲連打される極めて躁鬱の激しい構造になったし、対して『POSITIVE』はその反省、または市場動向を踏まえたからかヴォーカルトラックが大幅に増加し、言葉数も増えた。しかし、トラックメイカーとしての側面は大きく後退した。と、思う。

ここで一つ、きわめて私的な体験の話をする。筆者は2014年に開催されたイベント『YEBISU MUSIC WEEKEND』にて彼のDJセットを見ているのだが、その時の彼はなんとも居心地が悪そうだった。当時は『First Album』発売間もない時期で、前半は種々の楽曲のミックス、後半は「Don't Stop the Music」「ディスコの神様」「水星」など、自身の曲を連打していた。「これから自分の曲かけるんで」とわざわざ前置きをしてからターンテーブルに向かう彼はその頃から、さきほど挙げたトラックメイカーとしての矜持とポップスの担い手としての責任の間でどういったスタンスを取るべきか悩んでいたのではないか。

さあ、ここでそろそろ2017年に立ち返ろう。バック・トゥ・ザ・フューチャーだ。彼のスタンスはこの3年で大きく変わった。

さて、『FANTASY CLUB』だ。ここで彼の楽曲のスタンスが『ネガティヴ由来のポジティヴ』から『ポジティヴ由来のネガティヴ』に転換する。歌われている内容にそれが顕著だ。例えば、本作の歌詞には否定の語句「ない」がとても多い。

何かあるようで何もないな

(SHOPPINGMALL)

何が食べたいとか
そのくらいも決められないなら
欲してるもの 手に入れられてるかって
もうそんなの気にしないで
もうそんなの気にしない

(WHAT YOU GOT)

どこか遠くに行ったところで
動けないのさ

(BABY)

「何もない」「決められない」「動けない」等のフレーズは、それだけ見ればとてもネガティヴ。しかし『FANTASY CLUB』というアルバムはネガティヴ一辺倒なのか?と言われれば、それはNOだ。ポジティヴな感覚が完全に陰を潜めたわけでは決してない。 

寒い夜や暗い日々が
辛いだけじゃないって知ってた

(LONELY NIGHTS)

「辛い」を部分否定する形で「だけじゃない」という言葉が配置されることで、ネガティヴさだけでなくポジティヴさも醸し出されている。ポジとネガが同居することによって、結果的に、「どちらに振れればいいかわからない」「どっちつかず」な姿勢への開き直りが立ち現れてくる。「気づかないでいい」と外に向かって語りかける「CHANT #1」と、「FANTASY CLUB」への加入/感知を望む自分語りの「CHANT #2 (FOR FANTASY CLUB)」の対比もまた「どっちつかず」といった印象を強める。

二項の対比は歌詞においてだけでなく、トラックや曲構成でも行われている。神戸という明確な都市とその盛り上がりを想定することによる無尽蔵なアップリフティングが特徴的な「THIS CITY」と、ピークといったピークが配されることなく、曖昧模糊とした音色も多い「FANTASY CLUB」のペアがそれだ。

これほどまでに相反する主張を曲中やアルバム全体に混在させる様子は以前のtofubeatsには見られなかったものだ。少し話が逸れるが、なぜこうした転換が起こったのかについても触れておきたい。個人的には、外向きから内向きへ視点が変わったからだろうと考えている。「みんなのためのアルバム」ではなく「tofubeatsのためのアルバム」を作り、みんなにどうなってほしいかではなく、自分はこうであるということを描写したのが本作なのではないだろうか。アニメ『クラシカロイド』の楽曲制作など、このアルバムの製作期間中にいくつかの外仕事をこなしていたこともあってか、『自分名義でポップなものを作らなければならない』といった責任から多少は逃れることができたのかもしれない。いずれにせよ、『FANTASY CLUB』は史上初めての自分語りアルバムと言って差し支えないだろう。

 

話を本題に戻そう。ことほど左様に『FANTASY CLUB』というアルバムは言葉・音の双方においてわかる/わからない、の間で佇んでいる。そして「そんなの気にしない」と開き直り、肯定してすらいる。そういえば、「FANTASY CLUB」の着想の元であるPierre's Fantasy Club「Dream Girl」、そのジャンルはシカゴ・ハウスだ。ハウスミュージックもまた、ゲイという「どっちつかずと見做されるが故に生きづらくなってしまった」人たちを肯定するための音楽ではなかったか。この「どっちつかずの肯定」というテーマにおいて想起されるのは、星野源「夢の外へ」だろうか。「僕は真ん中をゆく」と歌った星野源とのオールナイトニッポンにおける邂逅が必然であったのだと、僕らはここでようやく思い知らされる。

今作のインタビューにおいてtofubeatsは、しきりに「わからない」と口にしている。し、アルバム内で「わからない」という状態のままであることを肯定してもいるということは先に述べた。しかし一口に「わからない」と言っても2つのパターンがある。考えた上での「わからない」と、ハナから思考停止している「わからない」だ。以上二つに「わからない」という言葉の意味を分類することで、『FANTASY CLUB』の持つテーマをもう一段掘り下げることができる。本作をすでに聴いた方なら、tofubeatsがどちらの「わからない」を志向しているかは理解できるのではないだろうか。「LONELY NIGHTS」の歌詞を見てみよう。

頭使っててもまた間違う

(LONELY NIGHTS)

人の心も、何がリアルかも、わからない。だからこそ、考えることにtofubeatsは価値を置いている。逆に言えば「わからなくてもいい」と開き直るtofubeatsであっても、あらゆる「わからない」を認めているワケではない。なぜなら「わからない」という言葉には「考えない」の言い換えに過ぎないものも含まれるからだ。特定の文言を道標にできる人達であれば、決断に至るまでの道筋を「考えない」生き方もナシではないのかもしれない。しかし、特定の宗教を持つ人が他国と比べてわりあい少ない日本において、多くの人が決断の拠り所にするのは自分自身の思考でしか有り得ないのだ。

 

結果が「間違い」でも「わからない」でも「どっちつかず」でも、いい。大事なのは自分なりの正解を出すために考え続け、そこで生まれた答えを信じること。ともすれば陳腐にすら聴こえうるメッセージがちっともそう聴こえないのは、今挙げたことを実践できている人がそう多くないからだろう。ネガティヴの裏返しからくるポジティヴの過剰を逃れたtofubeatsは、本作で両者を混ぜ合わせることでわからなさを肯定し、自己決断の在り方を問い直すに至った。最高傑作だと思う。

神なき世界で人はどう生きるか。『FANTASY CLUB』にはそのヒントがある。


まっつ(@HugAllMyF0128