前回の記事では「音楽だいすきクラブ」というブログにも関わらず、TSUTAYAでレンタルして観て衝撃を受けた『地獄でなぜ悪い』について書いてしまったので、今回は以前某講座で課題として提出した相対性理論『TOWN AGE』レビューをコピペしてました。ちょうどぴっちさんが相対性理論初体験を済ませてアツい記事を書いてくださったので。便乗ということで。
以下レビューです。
相対性理論の3年ぶりのアルバム『TOWN AGE』を聴いたリスナーは戸惑っている、というのが俺の印象だ。このアルバムを受け入れた相対性理論のファンですら、最初に受けた戸惑いを隠せない。
リズム隊が入れ替わったから?冒頭の度胆抜かれるリコーダーの音色のせい?やくしまるえつこの今までとは異なるある種エモーショナルな歌唱から?俺たちは様々な理由を探す。いや、ほとんどのリスナーは自分たちの求めている音楽がそこに無ければ、ひょいと別の音楽に飛び移る。
現在系の音楽との触れ合い方を非難しているわけじゃない。変化に強い人間はいつの時代にも少ない。
しかし今回は踏ん張ってみよう。幸運にも一度は相対性理論に惹きつけられた俺たちだ。彼らについて考えることは、俺たち自身について考えることになるかもしれない。
俺が相対性理論に惹かれたのは大雑把に言って①「まるえつ」の感情を排したロリータボイス、②まるえつボイスの魅力を最大限生かすために計算された隙間の多い演奏、という2つの理由からだ。
①について、まるえつの歌唱は大きく変化した。「キッズ・ノーリターン」が最も顕著だ。歌いだしはいつになく抑制されているが、サビに向かいながら次第にエモーショナルになり、とても長いセリフまで入る。俺はこの曲を聴いてやくしまるえつこという一人の女を感じた。今までの俺たちは彼女に対して勝手なイメージを持つことが許された。かつてのまるえつは禁欲的に感情を排し、俺たちの欲望に忠実なメイドのようなものだったからだ。しかし俺たちはもう甘えられない。4分19秒の曲の中で感情の起伏を見せるやくしまるえつこと俺たちの関係は、人々が椎名林檎や鬼塚ちひろ、Coccoを聴くときの状況と似てきている。
②について、「上海an」のイントロでリコーダーが使われたことからも明らかなように、以前と比較して『TOWN AGE』では音の種類が増えた。かつての相対性理論の隙間を埋めていくようだ。俺たちは相対性理論の持つ隙間のおかげで、様々な印象を彼らに押し付けることができた。しかし今回はそれが許されない。
僕たちの戸惑いは、やくしまるえつこという他者が相対性理論の音楽の表に出てきたことに関係するのではないか。彼女はボカロじゃない。その事実を直面するのがこのアルバムではないか。
TOWN AGEに生きる彼女はタクシーの車窓から新宿の街を眺めて感傷的になる一人の女だ。やくしまるえつこは僕たちに凌辱される一つのキャラであることをやめようとしている。
《私の知らない言葉で喋らないで》(「帝都モダン」)
そんなことをやくしまるえつこに言われるとはゆめゆめ思わなかった僕は今日、俺は今日、人生初のストリップショーで「チャイナ・アドバイス」に合わせてドレスを脱ぐ女から投げキッスをもらった。
この文章その某講座でも結構ダメだしを食らいました。
主なダメだしは2点
①俺と僕という一人称の混在
②まるえつの歌は本当にロリータボイスなのか?
①の指摘はもっともです。でもただ、一応狙いがありました。
「俺」という一人称に「まるえつを自分の欲望に忠実なメイドとして扱うダメ男」のイメージを込め、「僕」を、「まるえつを他者として認める内省的な印象を与える一人称」として使いました。まあ、そういうことは、人称で表現するんじゃなくて文章で表現しろって話ですよね……。
②についてですが、これは「音楽大好きクラブ」のみなさんに是非お聞きしたいです。やくしまるえつこの声って何なのですか?(笑)ロリータボイスは確かに安直だったと思うけど、この文章を書いてから半年近く経った今でも、まるえつボイスを何と表現すればいいかわかりません。
皆さんのまるえつボイス、まるえつ歌唱論についてお伺いできたらうれしいです。それでは。
就活2年生(@shibu8hate)