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誰そ影に何を見る

コラム

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2014年4月9日、THE BACK HORNの10枚目のアルバム『暁のファンファーレ』が発売された。収録曲の一覧が発表されたとき、ぱっと目に留まったのが「タソカゲ」の曲名。見慣れない字面と響きに、どんな意味の造語だろうと思いを巡らせ待っていた。

歌詞を見てみれば、華やかな派手さこそないものの透き通る不穏なコードとリズムが印象的な「タソカゲ」は、歌詞にも出てくる「黄昏(タソガレ)」と「影(カゲ)」を合わせた曲名なのだろうとすぐに思い当たった。さらに、「誰そ彼」、つまり「彼は誰?」と問いかけてしまうほど人の姿が薄闇に紛れる時間帯をさした黄昏時の語源を考えてみると、この曲名は「誰そ影」、つまり「あの影は誰のもの?」と、そんな一つの問いかけにも思えてきた。

作詞はベースの岡峰光舟バックホーンに加入したのも、作詞を始めたのも4人の中で一番最後だ。「夜空」、「虹の彼方へ」のように、もうここに無いものに思いをはせる詞もあれば、「負うべき傷」、「反撃の世代」のように使命を歌う曲もある。今回はどんな歌詞なんだろう。片隅で影の持ち主をさがしながら、考えてみることにした。

《家路急ぐ音 不意の雨上がり 続く夢の中 街を包む風》

「家路を急ぐ」のは誰だろう。「音」が聞こえるだけで姿は見えない、夕暮れ時の家路につく人々。その中で一人佇む、そんな姿が目に浮かぶ。そこで、「不意の雨上がり」。しかし場面は変わらず、なお「続く夢の中」。夢とは自分の脳内が見せるもので、現実の出来事ではない。何を考えていたにせよ、気をそらすような予期せぬ雨上がりにも関わらず、未だ自分の心に閉じこもっている。本来、吹き抜ける、流れているはずの「風」も「街を包」んで止まっている。心情と風景がごちゃまぜとなり、なおかつ断片的な描写。そのまま開放的な音のサビに入る。

《長く伸びた手を放ち 虹を掴むように 時のいたずらをなぞる 振り返ればひとり》

「長く伸びた手」の持ち主は分からないが、受動的な印象の表現。また「手を放ち」という言い回しも気になる。離し、ならつないでいた手を離した場面を想像するが、放つとは……しかもその後「虹を掴むように」と来たもんだ。さっきの雨上がりの虹は情景的には美しいが、「雲をつかむような」とか「空を切る」とかと同じで、不可能ということを言いたいんじゃないか。

心の赴くままイメージすれば、「時のいたずら」が作り出した伸びた影と、まるで自分から切り離したかのように二人だけの時間を過ごしたけれど、夕闇が落ちてふと気づいてみれば、影は誰でもなくそこには自分しかいなかった、とそういう虚無感だろうか。

《夜を重ねては移ろう日々のヒビ 遠く離れてく浮かぶ木の葉のよう》

「遠く離れてく浮かぶ木の葉」が考えやすい。宙に?いや水面に浮かぶのだろう。とすればやはり先ほどの雨か。かつては自分の一部だったものが、役目を終えてそっと離れていく。自分は未だ夢の中でも、確かに何かが変わっている。「日々」が「ヒビ」に移り変わり、また逆も然りで、そんな感傷がどんどん積み重なり遠ざかる。年を取るとは、経験を重ねるばかりでなく、無くすものもある、ということか。

《長く伸びた影落とし 擦り切れた音色 淡き青春の光 路を灯す》

ここで一番のサビで「長く伸びた」のは「影」のことだったか、とわかる。「音色」も突然の聴覚に思えるけれど、実は一番頭に出てきている。家路を急いでいるんだから、この影は歩いて、あるいは走っている。向かう方角を未来とすると、後ろは過去。年を取ってしまったし、置き去りにした「青春の光」は淡く仄かだけれど、自分の先にまだ続く未来への「路」を確かに「灯」している。

《空 俄かに黄昏 響く確かな声》

「にわか」、突然とか一時的とかそういう意味。急に変わった空の色と、空を見上げる余裕がふっと生まれた心境とを、重ね合わせている。そしてその空から聞こえる声とは、次。

《漠然と近づくタナトスに怯え 曖昧に溶かすな勤しみが生きる希望》

死そのものを神格化した神である「タナトス」。死とはっきり言わずタナトスとしたのは、幻想に怯えるな、夢の中に生き続けるな、ということか。精を出す、励むというと古臭い感じもするけれど、生き急がず一日一日をきちんと生きる、つまり生きることに勤しめば、それが「希望」となる。

《長く伸びた手を放ち 虹を掴むように 悪しき沈黙を破れ 孤独を染めて》

「悪しき沈黙」は、一番最初の「夢の中」、「街を包む風」だろう。風が止まれば待つのは死のみだ。「孤独を染め」るのは、もちろん黄昏。自分を殺すな、自分自身をしっかり見つめよ、という前向きな意味での孤独だから、「虹を掴むように」という表現のニュアンスもぐっと変わってくる。

《今 黄昏踏みしめ 光の影指す方へ》

ここでようやくわかる。影の持ち主は「光」だったのだ。時刻は夕方なのだから、影は必然的に東を向く。「光の影指す方」すなわち、翌朝のぼる太陽の方角。見上げた空から足元へ視線を下ろし、明日へと向かって、最初の一歩を踏みしめる。

歌詞はここで終わりだが、もう少し考えてみる。

気になるのは、今までバックホーンは「光のさす方へ」と歌うことはあっても、「光の『影』さす方へ」とは歌ってこなかったのではないかということ。それも当然で、偏見かもしれないが「みんな死んじまえ」、「腐った世の中」と自分の内側に閉じこもってきた彼らが、ようやく外から差し込む光の存在に気づき、そちらへ向かおうという方向性になってきたのがこれまでだから。もちろん、全然違うテーマの曲もあれば、最近はもっと「自分対世界」ではなく「自分が世界の一部」、「自分を、誰かを歌うことで世界を歌う」という風に変化してきている気もするけれど。

というわけで、「光の影」という表現はなんだか今までの次元から一歩進んだ感じがするなあと思うのであった。もっとも、ただ「年を取った」というだけのことかもしれないが。でもなんとなく、この歌詞を考えた後の黄昏は、いつもより色濃く深く目に映る。そんな確信がある。

 

 

かがり(@14banchi