音楽好きが難聴になったときのこと

世界が断絶された。

毎日点滴しに通院しては体に利尿剤を入れた。プレドニンという副腎皮質ホルモン剤のせいで体全体はむくむし、顔なんて通常の1.5倍ぐらいまんまるになった(ムーンフェイスというらしい)。そんな大学4年生のときのこと。日常が非日常に、非日常が日常になったとき。発症から5年経ったいまは一応完治、ライブのときだけ耳栓するけどあとは普通に生活できてる。参考になるかはわからないけど、とりあえず体験談を。長文注意。

 

大学生活はわりと謳歌したほうで、4年になる頃は出席必須のゼミ・部活・委員会に入っていた。バイトもゆるやかにしていたし、わたしたちの学年は大3の10月から就活戦線が始まっていた。その年の春は1日3タスクこなすのが当たり前の生活をしていたのだけど、大学に関することならともかく、GWに就活の手駒がなくなった。そのころ風邪をひいて放置してたら右耳が詰まってるような感覚があって、んー昨日からいきなり聞こえにくいな、保健室のおばちゃんにオススメの耳鼻科を聞いてみよう!と思い立ち、無事その日に教えてもらった耳鼻科に行った。やわらかい雰囲気の女医さんだった。

「早めに来てよかったね」

「(発症から72時間経つと聴力の回復は難しくなる、ようなことをいわれた)」

「耳のリンパの奥に水がたまってる」

「原因は寝不足や疲れとストレスっていわれてるんだけど根本的にはわかってなくてね」

「原因が分からないから確実な治療法もない」

「若い女の子にも結構多いのよ」

「お酒はリンパ管によくないからしばらく禁止」

「とりあえず漢方で様子見ましょう」

「いろいろ考えすぎずよく寝て休んでね」

はじめはこういうことを言われて、要は軽い難聴気味と言われた。「急性低音障害型感音難聴」は「突発性難聴」と似ているけど、とくに低音が聞こえにくくなるものらしい。それだった。

その日からわたしは外で音楽を聴くのをやめた。ところが毎日のタスクスタイルを変えることはしなかったせいで、苦い漢方を一生懸命飲んでいてもあまり回復しなかった。風邪を引いていた頃からバイトも休みがちになり肉体的に疲労も溜まっていった。責任感が少しはあるので、バイトを休んだら罪悪感も溜まった。右耳の詰まり取れにくいなー、と思っていたら左耳の奥がなんだか痛いなー、ボーボー低い耳鳴りがするなー、塞がった感覚がするなー、耳の中で音が反響するなー、眩暈がするようなー、なんか男子の声が聞き取り辛いようなー、あー目眩が酷くてこりゃ立てないぞー?、そう思い始めた頃にはだいぶ聴力も落ちてしまって、毎回の聴力検査では左耳の聴力が最初が-20dbほどだったのが-40dbに落ち。右耳も左ほどではないけどじゆるやかに聴力が落ちてしまって。こりゃ漢方じゃ間に合わないね、ということでゆるふわおじいちゃん先生にバトンタッチ。

「じゃあ強い薬に変えようね」

「これはきついから短期間に集中して飲む薬なんだよ」

「とにかく耳のリンパ奥に溜まった水を抜かなきゃいけないからね」

「利尿剤を飲んで抜くぐらいしかいまは治療法がないんだ」

「でも利尿剤で水分不足に陥らないように水はいっぱい飲んでね」 

冒頭のプレドニンと利尿剤(イソバイド)、あと2種類の薬(ムスコダ、メチコバール)が出された。利尿剤の点滴通院も始まり、もう針を刺せるところがなくなるぐらい通った。

ここでようやくバイトを辞めた。就活もやめた。ここで高学歴ニートの量産地である大学院に進む決断をする。大学の授業も大教室で行う授業には行けなくなってしまった。マイクの声やスピーカーの音が耳をつんざくせいで、普段は聞き流している教授の声も聞くことができなくなってしまった。テレビを見るときも音量はゼロで見ていた。過剰なBGMと付け足される笑い声が耳を襲うのが怖くて、初めてテロップがありがたいと思った(多少)。友人とのコミュニケーション手段も直接かメールにしぼった。右耳は生きていたけど、1分以上の電話は右耳にも相当の負担を感じた。ピークの頃は直接の笑い声も無理になった。それでも見た目はむくんでいてもあくまで健常なのだから、「難」を抱えた病気持ちということはわかってもらえない。むくみすぎて自分の見た目も嫌になった。雑踏へ出かけることもできなくなってしまった。氾濫する音の洪水に飲み込まれて動けなくなってしまうから。わたしを守ってくれたイヤホンが、わたしの敵になってしまったから。買い物もアニメもゲームすらもできず、家で本とマンガとインターネットをすることだけが唯一の娯楽だった。わたしは非日常の真っ只中にいた。

それでも音楽は、わたしの耳の中で鳴り続けた。

昼前に起きて朝ごはんを作るか迷うとき、外がいい天気で弱るとき、友人が貸してくれたマンガの1シーンに色を感じたとき、音量ゼロの着信音が設定された人からメールが来たとき、眠りにつこうとうとうとし始めるとき、光と風の描く眼前の景色に心が揺れたとき、あらゆる感情が出会う瞬間に。

しかし、わたしの脳内は覚えてる限りの音しか鳴らさない。

このまま、耳が聞こえなくなったら、もう二度と、新たに音を発見することはない。

このまま、耳が聞こえなくなったら、記憶の中の音と一生暮らしていくしかない。

このまま、耳が聞こえなくなったら、新曲が聴けない、ライブ行けない、友人や家族の声も忘れてしまうかも……。

こういう負の無限ループに陥ってはへこんだ。絶望で夜には涙も浮かんだ。聞こえなくなるのと死んでしまうのとどちらがマシなのか正解がわからなかった。でもお医者さんは懸命に処置を繰り返してくれるし、看護師さんはいつもあたたかい微笑みをくれた。だから点滴を打ったあと30分に4回猛烈にトイレに行きたくなる生活でも、薬を飲んで吐き気の止まらない時間が続いても、「あのこ太ったよね〜」とか言われてるのが(こういうことだけはどういうわけか)聞こえても、なんとか受け入れられてなんとか1日ごとに暮らすことができた。そのうちに梅雨が明けた。

私「いままでよりもちょっとマシな気がします」

「じゃあ聴力検査しようか」

「これはよくなったね(-20dbぐらい)」

「もう点滴まではいらないね」

「薬も弱めのに変えてみよう」

夏が始まる直前、すこし日常に戻った。たとえささやくような小さな音量であってもスピーカーで音楽を聞けるようになった。

この春の始まりに、つまりまだ忙しかった頃、back numberとUNISON SQUARE GARDENに出会ったばかりだった。正しくはスペシャで見た「春を歌にして」に魅かれバックナンバーを観に行ったライブでユニゾンに出会った(2009/4/13 lego big morl live tour 2009 "Quartette Parade" in HEAVEN'S ROCK さいたま新都心)。ユニゾンは、居合わせたファンのお姉さんが激プッシュしていたのもあって印象に強く残った。生で観た彼らはとても良かった。それぞれの良さを噛み砕く前に、難聴という壁によって欲を遮断されてしまっていたので、すこし治りかけたこのとき、この2組へと向かう欲の強さったらなかった。

back number「春を歌にして」

UNISON SQUARE GARDEN「マスターボリューム」

この2組と出会っていたおかげで「新しい音楽を聴ける歓び」と100%の思いで再会できたことは、この上なく幸せなことだと思えた。聴けずに積んであったCDを、夢中でスピーカーから流した。この世にはまだ知らない音楽がたくさんある。まだ知らない音楽を生み出してくれる人がたくさんいる。表現のかたち、音楽の楽しませ方、裏の顔、裏の裏の思い、狙い、欲望、いろんな種類の混沌が同居するこの音楽のなかを、これからも覗くこと、そして自分のものにすることができるのだ!音楽はいつでも聴く人を待ってくれている。そのやさしさや懐の深さにも触れた。決して出会いを焦る必要はなく、自分の好きなように、適正なタイミングで出会うようにおそらく運命付けられている。

薬を漢方に戻したと同時にback numberとUNISON SQUARE GARDENの次のライブのチケットを求めた。でも耳の調子が不安だったのでネット検索で「難聴 ライブ」を調べたところ、耳栓をすればいける!とのことだったので耳栓を買った。ライブに行くときに自分に課したのは、「耳栓は外さないこと」そして「体調と時間に無理をしない」こと。疲れたら症状が顔を出してくるので、その前に座る、外に出る、帰る。

不安から漢方はずっと飲んでいたけど、発症から1年半ほど経ったころにおじいちゃん先生から「もう来なくていいんじゃない?」と言われたので薬はもう飲んでません。でも今もライブのときは、お守りがわりに耳栓を欠かさないようにしてる。骨伝導なのかなわからないけど、耳栓をしていても音は意外としっかり聞こえるんだよね。もちろん本当はできるだけ両耳で聞きたいけれど、音楽が日常の外にあるような世界はもういやだ。日常が日常の形をとどめている場所で穏やかに過ごしていたい。音楽を失った、ある夏の決意。

 

余談

その夏のど真ん中で一度再発するのだけど、サマソニのチケットを持っていたわたし。

「先生、フェスに行きたいんだけど行ってもいいですか…」

「行きたいんでしょ?」「はい…」

「チケット買ったの?」「はい…」

「じゃあ行ってもいいけど、耳栓は絶対すること!!!!!」「はい!(いいんだ!!!!!)」

ということで、耳栓をつければライブに行ってもいいというお医者さんのお墨付きを得たわたしは、せっせとライブ通いに復帰していくわけです。へへ。幸せ。

 

 

やや(@mewmewl7