アニソン連載 #7 ここではないどこかへの誘い 堀江由衣と悠木碧に手を引かれ

声優:せい‐ゆう〔‐イウ〕
声だけで出演する俳優。アニメーションやテレビゲームなどのキャラクターの声を担当したり、外国映画の吹き替えなどを行う。*1

いきなりのお堅い引用から始まり、こんなことしなくてもいいじゃないかと思われそうだが、いまのアニソン界、声優の総アーティスト化なる現象を考える上で非常に大きな示唆を含んでいるように思える。

音楽には"ここではないどこか"へ聴く人を連れて行く力がある。同様に、アニメにも"ここではないどこか"へと観る人を連れて行く力がある。なればこそ、この2つの媒体を行き来する声優には、大きな可能性が有ると見られても不思議ではない。良き声優ならばなおさらだ。

思い出して欲しい。ポピュラー・ミュージックにおけるシンガーと言われるものが、音楽史的に言えばオペラ歌手や舞台俳優/女優などから派生していることを。声優は、脚本の歌パートにおいて、そのキャラクターになりきってキャラクター本人の喜怒哀楽を歌う。そこにパーソナルな心情の有無など、もしかすれば瑣末なのかもしれない。

例えば声優がアニソンを歌う場合、それは歌うよりもむしろ、物語の中のキャラクターに憑依し、「演技する」という表現回路が多いように思える。(例にあげれば、水樹奈々がヒロインを務めるアニメを水樹本人が歌う場合、水樹本人の中で「ヒロイン視点で歌ってしまう」といったような)

その回路をうまく運用しているのがキャラクターソングであり、アニソンファンは「アニメの中のキャラクターが歌うのだから、その音楽は紛うことなき純度100%のアニソン」というような風体に捉える。つまり「アニメの物語を音楽という形を通して掬い取りやすくしている」といえばいいだろうか。 

2015年に入り、声優界でもトップレベルの人気を誇る2人による2作、堀江由衣の9枚目となるアルバム『ワールドエンドの庭』、悠木碧の初となるアルバム『イシュメル』が届けられた。この2枚は、聴く者に"ここではないどこか"への道筋を真っ直ぐに示してくれてる、素晴らしき快作となった。それぞれ2作についてレビューする。 

 

悠木碧『イシュメル』

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悠木碧の音楽活動を通じ、アルバムとしては処女作品となった『イシュメル』。この聞き覚えのない単語は、小説「白鯨」の書き出し/語り手として名乗りをあげた言葉「Call me Ishmael」として一般的に有名だろう。

語句として読んでみればわかるが、イシュメル(Ishmael)はヘブライ語アラビア語圏の言葉であり、旧約聖書に登場するアブラハムの長男を指す(ちなみにアラビア語で読めばイスマイールになる)。

カナーン(約束の地)で暮らしていたイブラハムと妻の妾として仕えていたハガルとの間に生まれたのがイシュメルであり、ハガルと共にカナーンから砂漠へと追放されてしまう。その意味から、イシュメルには「追放者/憎まれしもの」という意味が込めれているという。

「媚びない!」。これも「リスアニ!TV」さんで言ったことなんですけど、媚びても媚びなくても何かを表現すれば、必ず一定のご批判はいただくんだよなって最近気付いたので(笑)

悠木碧の容姿やイメージからは少しかけ離れたように見えるこの言葉がこの作品に名付けられたのも、一聴してみれば「なるほど」と頷ける。今作は、大文字のJ-POP的サウンドからははみ出した作品になっている。

バンドサウンドやハウスミュージックによる平坦な8ビートの滑走と、少女のおぼつかないスキップを踏むように刻まれる変拍子を織り交ぜながら、ピアノ、弦楽器、金管楽器の音色はダーク・メルヘンチックな世界観を生み出すように跳ねる。

スウィング・ジャズのグルーヴ感、一瞬でバラバラになってしまいそうなほどに危ういアンサンブルが広がり、悠木碧はその中を踊る。ポップミュージックにおいて、シンガーが自身の「声質」を様々に変えていくのはシンガー本人のキャラ性を損なうことがありご法度なのだが、悠木碧はそれすらも厭わず、時には女優として演じてみせる。その様は聴きやすさを重視したJ-POPでは味わえない興奮を与えてくれる。楽しげに愉快に、音と声が飛び交う音世界に翻弄される。

それは、日常風景から突き破って別世界からやってきたロリータ・ルックな悠木碧が、今作ジャケットのように"いま、ここ"ではない、"ここではないどこか"からハミ出し、僕らの目の前に現れたからだ。

「あなたに好きになってもらいたくて、私の好きな服でかわいく着飾ってみました」っていう作り方、「あなたに聴いてもらいたくて、私がかわいいと思う音と言葉を集めてみました」っていう作り方をしたかったし、私にとって本当にかわいいものばっかり集めてみました。

(中略)

今回のアルバムのテーマ、私が今「かわいいな」「面白いな」と思っていることっていうのは「知らないとすごく怖いことであっても、実はその対象のことをちゃんと知ると怖くなくなるのかもしれない。そういうことっていっぱいあるよな」っていうことなんです。

こうしたコンセプトから生まれたアルバムは、「半開きのドアみたいなスキマには何者かが潜んでいる気がして怖いから」ということから始まり、主人公と4匹の怪獣とのやりとりが曲ごとに複雑に絡まりあい、非常に濃密な世界観を成している。少女趣味的で童話的でありながら、非常にコンセプチュアルな一作となっている。

今作の楽曲は彼女自身が作曲作詞を手がけたわけではない。bermei.inazawa、河原﨑亙、辻林美穂の3名にアルバムの全体像を伝え、その後に作曲者作詞者と綿密にやりとりをすることで生まれている。作品世界の原案を上げながら、パーソナルになりすぎず作品世界へとダイブし、「キャラクターを演じきる」悠木碧

その作風と制作法は、まさに由緒正しきシンガーと言えるだろう。そしてここには確かにアニソン主題歌も加わっているが、その印象すら失われるほどに、圧倒的な世界観が座しているのだ。

ではこちらはどうか。

 

 堀江由衣『ワールドエンドの庭』

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世界は広いようで狭いようで……みたいなことが表したくて。世界の果ても自分の庭というテリトリーの中にあるような、でも一方で一歩踏み出せば違う世界が開けているかもしれない

世界の終わり、バンドのことでも、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTの名曲でもない、単なる「世界の終わり」というイメージを、想像したことがある人は少なくないとは思う。

赤い空に沢山の隕石が見えて大地は轟々とマグマを垂れ流している、だとか、目の前がほぼ真っ白に染まるほどの大雪と触れれば元には戻らないほどに凍ってしまった物質ばかり、だとか、世界中でゾンビ化が進む、だとか、単に地球が割れる、だとか、そんなもの見えるわけでもなく一瞬にして全てが暗くなってあっけなく自意識すら消えるとか、そういったたぐいのありえない想像。

そういった想像は、SF小説で創造という形になる。所謂フィクションでいうところの「終末もの」といえばいいだろうか。若い人たちに好まれるような「終末もの」といえば、やはりエヴァンゲリオンであろう、「世界の終末」と「主人公とヒロインの狭い関係性」を直接的に結びつけて世界の命運が決まる"セカイ系"作品であろう。

堀江由衣の『ワールズエンドの庭』は、最終曲「Garden」においてこう歌われる 

誰も居ない世界の果てに
もし2人でいられたら
果てない世界だと
どこまでも 飛べる自由を 歌えるだろう(Garden)

別段、今作において歌われる君と僕は世界の趨勢などを決めたりはしない、だが、僕が君に恋慕するあまりに、君を欲しがる僕の世界(セカイ)が窮地になっている、などという認識を持って見れば、なるほどこのアルバムは「(ある一人の人間の中の精神が)終末」するというテーゼで貫かれた一作だと気づける。

バグパイプのような音色から一気にバンドサウンドと管弦楽器が畳み掛けていく「Stand Up!」、どことなくエルトン・ジョンフリートウッド・マックなどのオールディーズなUKポップスを思い起こさせる 「ほんのちょっと」、四つ打ちハウスナンバーで合いの手も入る堀江由衣的パーティナンバーであろう「Golden Time」。

そして現在のJ-POP界でもっとも"変態的楽曲を創出できる"シンガーソングライター清竜人による「The♡World's♡End」「ミステリー…」「半永久的に愛してよ♡」「Girl Friend」は、これまで提供してきた楽曲同様、荒々しさと穏やかさを行き来する切迫した心を表すようなサウンドとアブノーマルすぎる曲展開が、今作に毒々しさをもたらしている(序盤中盤終盤に置かれているのも非常に効いてる!)。

バラードをあまり好まない堀江由衣らしい終始アップテンポな作風、邪気のない爽やかな声質で歌い回す彼女の声に導かれて、わずか1時間程度での世界をあっという間の旅路にように感じさせてくれる快作に仕上げている。

 

前作から3年ぶり、本作で通算9枚目、今年2015年でソロ活動も14年目を迎えた堀江由衣。これまでもこういったコンセプトを裏で用意し(しかも作品によっては深く明言すらされていない)、彼女はその作品のヒロインを「演技」し、歌う。

以前違う自分のブログで書いたが、彼女は演じるというのが本当に大好きなのだろう、水樹奈々などが多少なりとも"自分の言葉"を歌おうとするのとは別に、彼女はある程度の注文を投げ、投げ返された差異化し変容したキャラクターを演じているように見える。

悠木碧のように、ある程度の統制を施して物語を構築し、そこで自分を表現していくのとはまた違う、与えられた役が自分を見つけてくれる、または与えられた役の中に自分を見出す、そんな工程を苦しみながらも楽しめるタイプのアクトレス。30歳半ばになって生み出されたこの一作で最もはっきりと分かるのは、演技者として才能と情熱はまだまだあるということだ。

 

前回の連載でもそういった旨の話を少しだけしていたし、実はこのアニソン連載を始めるきっかけになった

において、一瞬だけ話をした話題を、あらためて今回書いた。

それは「キャラクターを演じることに長けた声優が、もしもポップミュージック上で浮かび上がるキャラクターやストーリーを演じれば、一体どんなことが起きるのか」ということだ(再三再四書いてるけどももう一回書きます)。こうして俯瞰してみると、いくつか重要な点が浮かび上がってくる。

  • 声優は演技をする。そのテーゼに背くことなく歌手であることにトライすること
  • 作曲家/作詞家との三すくみで、徹頭徹尾に<ここではないどこか>という世界の構築度を上げる(アニメに負けず劣らずのレベルで)
  • 自身のプライベートな匂いを一切含ませない

などではないだろうか。

「っていうかお前、これ、それっぽいテーマの作品がたまたま続いて、音楽的にピタリと合っただけじゃないのか!?」と思われるかもしれません。おそらくそうなのでしょう。

しかし、いまの声優界の大きなトピックがいくつかある。花澤香菜がメインヒロインとなる実写映画の公開、今もっともテレビに映ることの多い声優であろう水樹奈々の奮戦ぶり。彼女らへの期待などを踏まえて1つずつ推し量っていけば、声優という存在に対する期待感は史上稀に見るほどに高まっている、と言っても過言ではない。その影響がどれほど大きなものになっていくか楽しみで仕方がない。

 

最後に、日本のアイドル史上屈指のボーカリズムを誇る中森明菜に対し、彼女のヒット作を数多く作詞した売野雅勇による評を引用しよう。

彼女は僕の創り上げた詞の主人公を見事に演じ、脚本以上の映像をつくってしまう素晴らしきシンガーアクトレスだ*2

声優は本業のシンガーと肩を並べるほどに、音楽を唄う存在になるのではないのだろうか?という可能性について、ご拝読ありがとうございました。

 

 

草野(@grassrainbow

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