Radiohead『A Moon Shaped Pool』

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Radioheadの5年ぶりの新作『A Moon Shaped Pool』について合評しました。相変わらず好き勝手なことを書いています。長いです。今後もよろしくお願いします。

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最初に聴いた時はひどく混乱した。よくわからなかったからだ。事前に発表された「Burn the Witch」「Daydreaming」はとても良かった。でもその後の楽曲がいつかどこかで見たもののように思えた。具体的に言うと『Hail To The Thief』前後のもの。身に纏うアレンジこそ新しかったが、曲の成り立ち、要はメロディーは進歩していない(というか戻った)ように見えた。

トム・ヨークのこれまでの活動を振り返ると、『In Rainbows』である程度音数を絞った作品を作った後、『The King of Limbs』とAtoms For Peaceの『AMOK』でリズムに対するアプローチを試行したように思える。これらの成果が現在の音楽シーンにどれほどの影響を与えたかは別として、少なくても追求する方向自体は間違っていなかった。

2015年、音楽シーンはヒップホップとジャズの方向からのリズムの革新に迫られた。D'Angelo、Kendrick Lamerは言うにも及ばず、David Bowieの遺作、そしてceroも。その流れに対する彼らの一手こそが次のアルバムであって欲しかった、というのは勝手な希望だろうか。

2016年5月2日、彼らはウェブサイトとSNSをすべて削除。その2日後新曲を公開し、5月8日には『A Moon Shaped Pool』を発表した。

とても洗練されたアルバムだと思う。彼らの闘争と実験の歴史がすべてこの作品のためだった。そう思えるほど収まるべくところに収まっている。『Kid A』『Hail To The Thief』『In Rainbows』の頃の彼らがバランスの良い形で時折顔を出してくる。彼らは自分たちが築いたものを丁寧に拾い上げ、それらを再び形作ることを善しとしたのだろう。それは『The King of Limbs』の時点ではできなかったことだ。

その上で彼らは悲しみに満ちたアルバムを作り出した。実際どんな選択肢もあったはずだ。実際には使われなかった「007 スペクター」の主題歌になるはずだった「Spectre」を聴けば、彼らはどんな曲でも作れたことがわかるはず。しかし、彼らは悲しかったのだと思う。リズムを生み出す気力もないほどに。

アルバムを再生し、曲を進めるごとに時間の流れが曖昧になる。まるでテープやレコードで遠い過去の音楽を再生するような感覚に陥る。強烈なアナログ感が僕らをノスタルジーに誘う。やはりトム・ヨークは悲しかったのだと思う。過去に戻らざる得ないくらい。

 

 

ぴっち(@pitti2210

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「What is there to see?」

ダンサー・イン・ザ・ダーク』の中で僕が好きなシーンは、セルマがこう発言した後に鉄橋から眼鏡を投げ捨てて「I've Seen It All」を高らかに歌う場面である。*1

彼女がおかれている立場は決して幸福ではない、むしろ不幸であるといったほうがいいのかもしれない。しかし、彼女にはミュージカルがあり、どんなに苦しい立場に置かれても常に頭の中では自分を含む役者たちが楽しそうに歌と踊りを披露する。見たくない現実を忘れるために音楽が存在する。多分その気持ちは「I've Seen It All」でデュエットしたトム・ヨークも同じだろう。

そして、それから15年以上経った今もその考えは変わっていないと思う。そう『A Moon Shaped Pool』もまた、見たくない現実を忘れるための音楽なのだから。

『The King Of Limbs』以降のレディオヘッドのメンバー達の活動を見ると、トム・ヨークAtoms for Peaceとして『AMOK』を、ソロとしては『Tomorrow's Modern Boxes』をリリースした。『The King Of Limbs』に比べると、どんどん音数が少なくなり、アンビエントなサウンドへと傾倒していってきたことがわかる。

ジョニー・グリーンウッドはソロ・プロジェクトも行いつつ「Daydreaming」のPV監督でもあるポール・トーマス・アンダーソンの映画2作品(『ザ・マスター』と『インヒアレント・ヴァイス』)のスコアを作り、2014年には本作にも参加しているロンドン・コンテンポラリー・オーケストラと共演も果たしている。*2

この2人の活動を見れば、本作でのバンドとオーケストラの絶妙なアンサンブル・セッションやビートが前作よりもシンプルになっていること、さらにはアンビエントなサウンド作りで、夢を見てるかのようなサウンドスケープにも納得は行く。

しかし、それでも1曲目の「Burn The Witch」に少しばかり違和感を覚える。他の曲に比べるとストリングスの躍動感や徐々に迫る不穏な空気がサウンドとして納められており、夢心地な感覚とは相対するように思われるからだ。では、この曲をどう捉えればいいか。

それを考えた時に思い出したのが2015年以降にヨーロッパ各地で起きたテロ事件だ。フランスではシャルリエブドの襲撃から始まり、パリ同時多発テロが、そして、デンマークコペンハーゲンでは連続銃撃テロ事件が起こった。今年に入ってからはベルギーの首都ブリュッセルの空港と地下鉄で同時テロが起こり、少なくとも30人が死亡した。ちなみにフランスとデンマークのテロに関していえばホーム・グロウン・テロリストすなわち地元出身者のテロリストであり、ヨーロッパ全土は「誰がテロリストであるのか?」と疑心暗鬼な空気が流れているようにも感じる。そして、フランスでの「公然テロ行為賛美罪」で多数の人間が逮捕されている事はそれを象徴しているとも思えてくる。

 その空気の反映が「Burn The Witch」すなわち魔女を燃やす「魔女狩り」という形で表現し、さらに「Daydreaming」以降からの夢を見ているような感覚は「悪夢みたいな現実は夢であってほしい」という気持ちの表れであるように思えてくる。

そして『A Moon Shaped Pool』の最後の曲「True Love Waits」で彼らは何度も真実の愛というものに対して《行かないでくれ》と歌う。アメリカ同時多発テロから3日後の2001年の9月14日、ヨーロッパ・ツアーの最終公演で「故郷に帰ろうとしているアメリカの人々にこの曲を捧げる」と言い「Street Spirit」を演奏してから15年。彼らは「愛に浸る場合ではない。愛を失わないようにしないと」とヨーロッパ、いや世界全体の人々に投げかけているのかもしれない。

 

 

ゴリさん(@toyoki123

ki-ft ダラダラ人間の生活

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Radioheadについて、『A Moon Shaped Pool』について書く。その話をぴっちさんから聞いて筆を取っている。

机の上には、キーボードとマウスとケータイ電話と眉毛切りと栄養剤とスピーカーとディッシュ、机の上段には山積みの請求書や5冊の文庫本がある。

PC画面右ではツイッターのタイムラインが自動で次々と流れ、このデスクトップPCには10万近い楽曲ファイル、そろそろ100本は超えたであろう過去6年間分の原稿用txtファイル、100作品近いアニメ作品の動画、何千冊にも及ぶであろう漫画のデータが詰まっている。ちなみに自作PCはこれまでに3台作ってきた。

その左隣のカラーボックスの上には、もう一つの画面、LGのテレビが置いてあり、「くまみこ」の最終話をちょろちょろと流している。そのテレビ画面の下にはJamesonのウイスキーが置いてあり、テレビの裏側には20枚ほどのCDがある。

最近では夜になるとお決まりのように雨が降り、冷たい風が室内に入ってくる。

そのすべてが、僕に「こちらを見ろ」「オレを知ってくれ」「というか知らないとダメだぞ」と訴えている。少なくともそこには何かしらの情報……らしきものが付随され、僕自身の体に大蛇のごとく巻き付いてくる。

そんなイメージを浮かべた瞬間、ぼくはイヤになった。

うぜえ。それらすべてが、本当にうぜえ。性懲りもなく、絶えず絶えずと無言のアピールを続け、無言の声を上げている。嫌になるほどだ。

そんな中で、僕はこの記事を書こうとしている。

 

こんなふうに事細かに自室の状況を見てみれば、Radioheadが悲観的かつペシミスティックであろうとする意味の向こう側がふいに見えてくる。なぜ悲観的でペシミスティックなのか、それは彼らがどうしようもなく拒絶的であり、どうしようもなく愛されたがるバンドだからだ。

君が幸せになるんだったら何だっていいさ
君が望むならなんでもするよ
君はほんとに特別なんだ
僕もそんなふうに特別でありたい

 

でも僕じゃダメなんだ
僕みたいなクズなんかじゃ
一体ここで何をしてるんだろう
ここは僕の居場所じゃないのに
僕の居場所なんてないのに

Radiohead「Creep」

 

この心には,どうしても埋まらない空き地みたいな場所があって
そのままにしてたら,ヘンな雑草が生えてきた
だからもう束縛はしないよ
どこへでも好きなところへ行けばいい

Radiohead「Lotus Flower」

Radioheadの歌詞において興味深いのは「相手への無理解に基づく自己完結型の葛藤と諦念」だ、彼らの言葉は相手を理解しきった上で歌っていないのではないだろうか。常に100 or 0、成すか成さざるか?という自身の潔癖的な側面でもって歌を生み出している。例えトム・ヨークが気を違えて「君の気持ちをわかっているよ」と歌っても、次の瞬間にはまるでわかっているとは思えないような言葉を歌うだろう。おおよそ彼らはそういうバンドだ。

しかもそれでいて、彼らは一度音楽を止めてみれば、立場立場にたって非常にラディカルな言葉を吐いてきた。戦争、紛争、政府、テロ、核問題、経済問題、エイズ、反人身取引、人権問題、LGBT、そして音楽マーケティングに至るまで、言葉だけではなく行動で示してきた。字面だけで見てしまうとひどく矛盾しているが、彼らは概念的なロマンがなく、実効性においてロマンにあふれているバンドである。「政府や世界はクソだ!」と音楽で表現する以上に、彼らは政府や世界を打倒しようとキャンペーンまでやろうとする。ゆえに潔癖的で、拒絶的でありながらも、愛されたがっていると言えようか。

ああそうか。今の日本じゃこんな筋で話すと、「音楽に政治を持ち込むんじゃない」って怒られるんだっけ?じゃあ、やめよう。

 

今作において彼らは、どん詰まりなまでに悲観的でペシミスティックになった。トム・ヨークは23年連れ添った妻と離婚したし、プロデューサーのナイジェル・ゴッドリッヂは実父を亡くした、そこで浮かび上がってきたのが、拒絶的でありながらもどうしようもなく愛されたいし愛していたい、そんな彼らの姿だ。

個人的には、最初の2曲があまりにも衝撃的すぎて、それ以降の楽曲があまり頭に入ってこない。いやむしろこの2曲がそれ以降の楽曲を邪魔するくらいだ。

おおよそ「Burn The Witch」は、いまは誰もがその手と目で実感できると思う。もしかすれば「魔女狩り」をそのままに読み解いて、海外のテロにおけるローンウルフ型のイスラム国の兵士に対する状況を刳り抜いて歌ったかのように思われるかもしれない、僕はそういった限定的な捉え方ではなく、マイノリティな意見やイデオロギーを持つ人としてとらえた。ソーシャル・ネットワーク・サービスにおけるコミュニケーションで良く見る光景……炎上といわれるものだ……を「Burn The Witch」から見て取れた。ロンドン・コンテンポラリー・オーケストラが今作『A Moon Shaped Pool』の全編で活躍している、特にこの「Burn The Witch」では白眉だ。

そして「Daydreaming」。この曲のイントロ、ピアノの音色を聴いた時にはひどく高揚させられた、リズムレスのアンビエント、ピアノの音色とトムヨークの歌声、PVはあてどなく歩くトムヨークがドアを開いては部屋を通り、ドアを開いてはまた通り、最後は雪山の洞窟でひっそりと眠る。

ドリーマーよ
君たちはなにも学ばない
決して何も学ばない
重要なことにも気づかず
もう引き返すこともできなくて

もう遅すぎる
傷ついてしまったんだ
傷ついてしまったんだ

僕は超えていく
君を超えていく

白い部屋
太陽が差す窓の側で

君の役に立ったなら幸せだ


Radiohead「Daydreaming」

最初は、白昼夢と聞いて「自己の過去を振り返りながらの内省に沈み込む」歌だと思っていた。でもこの曲はそういった曲ではないのであろう。アンビエント的なサウンドがもたらす治癒性にトム・ヨークが乗りかかった一曲だ。

歌うかのように、語るかのように、言葉を歌うかメロディを歌うか、そのあいだのラインでフラフラとふらつくボーカリズムに、白昼夢を見ながらフラフラと歩く人の姿を見出すのは容易い。その危うさに、ぼくはこれまでの彼ららしい自己内省の姿をみた。

しかしながらこの歌詞を読めば、傷心した人間の悲しみが詰まっているのは明らかだ。《Efil ym fo flaH》だけと綴られ、歌の中に浮上しなかったメッセージは「僕の人生の半分」、トムヨークの離婚が大きく影響を及ぼしているし、ナイジェル・ゴッドリッチの父にも通じていく。

ここでもう一度PVを見てみよう、雑然として何もない雑居ビルを歩くこともあるが、トムはおもに住居や病院やマンションなどの中を歩いているのが気付けるだろうか。彼はこの曲で、失ったモノの存在の大きさに気づき、怯え、慄き、その喪失を埋める何かを探し歩いているのだ。

それは山崎まさよしが歌うところの

いつでも捜しているよ どっかに君の姿を
向いのホーム 路地裏の窓 こんなとこにいるはずもないのに
いつでも捜しているよ どっかに君の破片を
旅先の店 新聞の隅 こんなとこにあるはずもないのに

山崎まさよしOne more time, One more chance

という失恋としても響くし、ナイジェル・ゴッドリッチにとっての父でもいいし、僕にとっては2013年に絶縁したとある人の存在であろう。つまり「それまで大きな存在だった何か」の喪失についての歌だ。無論「Burn The Witch」のように「国家国民に向けられたもの」に読み解くこともできる、こうした多解釈を許せる歌詞を書けるのが彼らの素晴らしさだろう、もっとよく知られるべきだ。

そういった歌を歌いながらも、彼らは潔癖的で拒絶的だ。このPVの最後では雪山の洞窟に閉じこもるわけだが「もう諦めよう」というふうにも見えながら、「もうすべてが本当にうぜぇ」という拒絶に見えることにある、いずれにせよ孤独を選んでいる。

 

お茶を濁しておくのもここまでにして、本質的なことを書こう。

彼らはいち早くダウンロード型販売に手をつけたロックバンドとして記録として残っている。ダウンロード型販売やサブスクリプション型サービス、それらに特徴的なのは、星の数にも及ぶアーカイブの中から自分独自のアーカイブを作り出すこともできながら、そのアーキテクチャ自体が聴取者を孤独へと誘いこんでいることだ。自分独自のアーカイブを生み出し愛し続けることで、自分自身を孤独へと追い込んでいく。

無論、例え同じ曲を聴いたとしても、その時に感じた感情は当人だけのものであり、サブスクリプション型サービスなんて事は言わずにCDやレコードの時代から音楽を聴くときには「孤独」を背負っていることを忘れてはいけないが、いま音楽リスナーは、この2重の「孤独」を意識できうるところまで明らかになってしまっているのだ。

では、50年間のポップ・ミュージック史の中から自分にピタリと見合うであろう「悲しみ」を選べるようになった現代において、パーソナルな「孤独」や「悲しみ」の歌は多くの人に届くのであろうか?。Adeleはその勝負を挑み、届けてきた。ANOHNIは自身の生い立ちを露わにして、届けてきた。リアーナとビヨンセ現代社会の暗部を正直に指摘することで、届けてきた。Jame Blake、David BowiePJ Harvey、Kendrick Lamarなどなど、自身の世界観と眼だけではなく自分自身を音と言葉に投影できることで、言語を超えて感情が迫りくる。そういった音楽はやはり届くのだ。

今作においては、ただただ「過去の君」に向けて言葉を集めて歌い上げているようにみえる。どうしてもポリティカルなメッセージ性が隠れているようには読み解けない。しかもそれらが「(相手への無理解に基づく)自己完結型の葛藤と諦念」となっているのだから、彼ららしいといえば彼ららしい。彼らしさを見失わずに歌われたパーソナルな悲しみは、どうだろうか?

 

 

草野(@kkkkssssnnnn