小沢健二「いちょう並木のセレナーデ」

こちらのブログでは一曲一曲を丁寧にレビュー、深読み、解釈していこうと思っています。取り上げる曲は洋楽/邦楽は問いませんが、基本的に歌詞のある曲に限定するつもりです。前回は自己紹介も兼ね、中村一義の主題歌について書かせていただきました。今回は僕の高校生から二十代前半のミュージックライフのほぼ全てを捧げた日本屈指のカルトスター、小沢健二の名曲「いちょう並木のセレナーデ」について。

小沢健二「いちょう並木のセレナーデ」

今や完全に廃れてしまいましたが、5年ほど前、当時全盛だったmixiにて小沢健二の歌詞の深読みをするトピックを作りました。今回投稿する記事は当時の内容を踏まえ、そこからもう一歩踏み込んでみようと思います。

まず、そもそも、『LIFE』という一種躁状態のアルバムにおいて「いちょう並木のセレナーデ」のフィーリングは明らかに異質なものです。

なぜ彼は「幸福なアルバム」にこのような曲を書き加えたのか?

「いちょう並木のセレナーデ」のあのしんみりとした終わり方は、続く「ドアをノックするのは誰だ?」の豪華絢爛なイントロの爆発力を高めるという効果もあるでしょう。しかし偏執狂的なまでに完璧主義であるあの小沢健二が単にアクセントとして作中に加えただけとは、やはり考えにくいのではないでしょうか。

あまり指摘されていないのですが『LIFE』というアルバムには全ての曲に英語の副題が添えられています。例えば「愛し愛されて生きるのさ」なら「Love is all what we need」といったように。それではいちょう並木のセレナーデの副題はどうなっているか。ブックレットにはこう書かれています。「stardust rendezvous」つまり「星屑のランデヴー」です。

ここで彼が雑誌Oliveで連載していたDOOWUTCHYALIKEの最終回、「無色の混沌」から一部分引用します。この文章では「いちょう並木のセレナーデ」そして星についても話が及んでいます。

けどそういうこと全ては、どうでもいいことだ。「ラブリー」とか、「いちょう並木のセレナーデ」といった歌を歌う事に比べれば。(中略)

僕らの体はかつて星の一部だったと言う。それが結合して、体が在って、その心が通じ合ったりするのは、あまりにも驚異的で、奇跡で、美しい。

ここでは「ラブリー」と「いちょう並木のセレナーデ」が並列に扱われています。アルバム「LIFE」を象徴する曲が「ラブリー」であることに異論がある人は少ないはずです。一見正反対に思われるこの2曲を並列に扱った理由が冒頭の問いのヒントになるかもしれません。

ラブリーにおいて何度も何度も繰り返される「Life is coming back!」という言葉。coming backという言葉には「かつてそれは僕のそばにあったが、時は流れ、消えてしまった。そしていま、それは再び僕の手の元に戻ってきた」という意味が込められています。そして同時にそれは再び失われる、ということも暗示しています。

「いちょう並木のセレナーデ」と「ラブリー」の2曲は表裏一体でそれぞれがそれぞれの変奏ではないのでしょうか。なぜなら「いちょう並木のセレナーデ」で歌われる内容は「ラブリー」の暗示そのものだからです。歌詞を追ってみましょう。

《きっと彼女は涙をこらえて 僕のことなど思うだろう いつかはじめて出会った いちょう並木の下から》

ここでは「ラブリー」において「朝がくる光分かりあってた」ふたりが別れてしまったことを示します。それはよくある恋人同士の別れかもしれませんし、死別かもしれません。とにかくcoming backしたはずのそれはまた何処かに飛び去ってしまった。

《もし君がそばにいた 眠れない日々がまた来るのなら?》

通常、同じ内容を表現するのなら、日々が「また来る」ではなく「戻れたら」といった表現の方が適当です。あえて彼が「また来る」と少し不自然な日本語で歌詞を書いたのは、このラインは「いちょう並木のセレナーデ」における「Life is coming back」と同じ意味であるからだと僕は思います。もちろん「ラブリー」と「いちょう並木のセレナーデ」では込められた感情が大きく違います。前者では幸福感と悲しい予感として、後者では祈りとして。そして「ラブリー」と「いちょう並木のセレナーデ」は円を描くように繋がっていきます。(このような永劫回帰を思わせる円環の構造は彼の好むところで「天使たちのシーン」「旅人たち」「流星ビバップ」などにも見受けられます。)

《she said i'm ready for the "blue"(ブルーの準備はできているの)》

過去形から、この台詞を彼女が吐いたのはラブリーの頃であるとわかります。この言葉はニーチェにおける超人の言葉、永劫回帰ニヒリズムを受け入れ肯定する「よし。もう一度」と全く同種の言葉だと僕は思います。円環する生への肯定/諦念は胸を締め付けられるような次の部分にも現れています。

《やがて僕らがすごした時間や 呼びかわしあった名前など いつか遠くへ飛び去る 星屑の中のランデブー》

その円環では星と星が出会うようにとても長い時間をかけ、一瞬の邂逅の後、再び離れて行きます。彼が書くように「それはあまりにも驚異的で、奇跡で、美しい」ものです。「ラブリー」と「いちょう並木のセレナーデ」のこの構造は、「LIFE」というアルバムが生の円環についての全肯定と賛歌であることを証明していると思います。

なぜ彼はこの「幸福なアルバム」にこの曲をいれたのか?

それは彼が幸福も、そして幸福が生む悲しみも、それら自体が美しいことである。そう肯定しようとしたからではないでしょうか。

アルバムの最後、いちょう並木のセレナーデはオルゴールにより再び変奏されます。副題は「And on, we go」つまり「さあ、行くよ!」、そんな超人の言葉でアルバムは幕を閉じます。以上です。ありがとうございました。

 

以下、蛇足。

Amazonで『LIFE』のアルバムレビュー、自身のブログで彼のライブについて書いています。合わせて読んでもらうと楽しめるかと思います。

Amazon.co.jp: LIFEの 雅/tokuさんのレビュー

小沢健二 - いまここでどこでもない

 

 

くらーく(@kimiterasu

いまここでどこでもない