INU『メシ喰うな』

f:id:ongakudaisukiclub:20140609082148j:plain

ただ「詩を読む」のと「歌詞として歌う」のは何が違うのか。もちろんいろいろ違う。しかし一番の違いと私が考えるのは、込められたメッセージの「説得力」を引き出す力が音楽にはあるのではないか、ということだ。どれだけ簡単なメッセージでもいい。「君が好きだ」「愛してる」なんて歯の浮く言葉も、「俺は特別な人間なんかじゃない」なんて卑下も、音楽に乗せてしまえば愛しさや悲しさは数倍に膨らませることが可能である。しかしあくまで「可能」なだけであって、確実ではない。むしろ下手な音楽に乗せると魅力は数百分の一になる事だってある。

その点で考えると、この『メシ喰うな』は、日本最高のパンクアルバムだと断言してもいい傑作だが、メッセージが音楽を伴うことで最大限に引き上げられる事実を証明するには最適と言えるであろう。メッセージとは一つ、「怒り」である。ここに込められた怒りは一切の遠慮を持たず、聴き手の耳ではなく心を、刺すのではなく切りつける。切れ味抜群の言葉と演奏、そしてメッセージ。そしてもう一つ注目したいのがこのジャケット。野良猫のような鋭い眼光。ある意味この写真が本作の全てを物語っているといって良いだろう。

まず、一曲目の「フェイド・アウト」が素晴らしい。イントロのギターは構えていた人が拍子抜けするほどキャッチーでメロディアスだが、町田町蔵の声が入ってきた途端その印象は変わる。当時10代の青年は「歌唱」ではなく「叫び」という方がしっくりくる。

《曖昧な欲望しか持てず 曖昧な欲望を持て余す》

と叫び、無常観を嘆く彼の姿に心を痛めない者はいない。彼は当時まだ18歳。怒りを隠すことは出来ない。隠す必要もない。

そしてハイライト「メシ喰うな!」は腹の底からの怒りと嘆き。矛先は全人類。「人の海」。何度聴いてもとち狂っている曲だ。何度も「俺の存在を頭から打ち消してくれ」と叫び、全てをない物にしようともがく。そしてその後押しをする北田昌宏(現在行方知れず)のギターはこれまでとは一転、ひたすら「人の海」を表現する為にフリーキーに鳴り続ける。そして

《おまえらは全く自分という名の空間に 耐えられなくなるからといってメシばかり喰いやがって メシ喰うな!》

という歌詞は本当に素晴らしい。これこそ日本のパンク精神だ。文学的であり野蛮的。どちらも忘れてはいけない日本人の長所であり短所だ。

北田の狂ったギターは、「気い狂て」でも味わえる。イントロから切り裂きにかかっている。そして町田は叫ぶ。

《定まらぬ視線の中で みんなお互い窒息寸前》

と、相変わらず群れを成す「人の海」への嫌悪を丸出しにする。そしてそんな状態だと《気い狂いて死ぬ》

と断言。そしてニュースと相撲中継の背後で再び狂ったギターがうねりを挙げる。もしかして私はもう死んでしまってるんじゃないか、なんて思ってると再び町田の叫びで我に返る。やはりこのアルバムは、町田と北田の主張がいがみ合いながらも一致しているという奇跡が生んだ産物と言えるのであろう。

もう周知の事実だと思うが、町田町蔵はその後名前を町田康と改め、作家として活動している。パンクロッカーと小説家、よく考えてみると相反しているかもしれないが、その両立が出来るのが彼の、いや日本人の素晴らしい能力だと私は思う。芸術作品は作家の主張が主な構成要素だ。怒りも悲しみも喜びも込められている。私は現在町田康の『告白』を読んでいる。そこから感じられるのは、間違いなく「怒り」だ。それが凄く嬉しい。

INU「気い狂て」

 

 

HEROSHI(@HEROSHI1111