6/6 浜崎あゆみ @ 代々木第一体育館

まずは感謝と謝罪と弁解を。

「わたしたちが浜崎あゆみに共感できなくなった理由」という記事を書きました。

ongakudaisukiclub.hateblo.jp

ネットって怖いな!こんなにも爆発的に広まると思わず、1週間で6万viewほどされたようです。本当にありがとうございます。煽るようなタイトルにした理由は、いま浜崎あゆみを無視している人たちへの怒りでした。どの口が言うねんというツッコミは甘んじて受けます。だけど『A ONE』がすっごく良かったから、これはみんな聴けばいいのに!なんで聴かれないんだ!あゆだからか!あゆは昔の人だからか!でも最新作こんなにもいいんだから昔ファンだったアラサー女子(ex.女子高生)はすごく多いはずだから!これで興味が向くなら向いてくれ!えーいこのタイトルつけちゃえ!!!という勢いでした。それなのに炎上しなかったいまのあゆファンみんな優しい(号泣)昔のファンというスタンスの想いを読んでいただいてありがとうございました…。

「わたしたちが浜崎あゆみに共感できなくなった理由」では”最新作『A ONE』は傑作であること”、”年上のあゆが社会的になるにつれ着いていけなくなったこと”、”共感より共存が身の丈に合うにつれ、あゆの変化を理解できるようになったこと”を書いて、”いままで気の向かなかったライブに行って、あゆの孤独を、姿を知らなければならない”と締めくくりました。記事公開から1週間後、代々木行ってきちゃった。

 

2015.6.5

ライブ前日の6/5に、6/6の代々木第一体育館で行われたあゆのライブに行くことを決めた。なぜいままで行かなかったのか、行く前に考えたことをまず記す。ライブ後に変わることがあればとドキドキする。

まずは前提として、あゆの歌はわたしだけのものだった。いくら友達と一緒に「この歌詞最高!」「このフレーズめっちゃわかる!」と共感したとしても、結局本当のところは自分自身の心の中しかわからない。だから、友達でもない、他の顔ファンかもしれない表層的な部分しか見ていないかもしれないノレるから好きなだけかもしれない無数のお客さんとともにあゆを享受するなんて、とても考えられなかった。

また全盛期はずっとチケットが取れず、且つライブに行ける年齢になってからはファンクラブに入るほどの熱量ももうなくなってしまったため、ライブに行こうという気分さえなかった。CDで歌詞を味わえたら十分だったし、歌う姿が見たければテレビを見ればいいと思っていた。またあゆを好んで聴く場合には歌詞を味わうことに重点を置いていたので、ライブでパラパラを踊るなんて絶対に嫌だった。「歌詞に共感しに行けるコンサート」という概念は、例えば鬼束ちひろのコンサートのように、セットやダンサーなどの演出がなく、歌そのものの力に圧倒されるコンサートだとずっと考えてきた。(余談:鬼束ちひろの歌詞に共感したいとは思っていない、歌詞も好きだけど)だから、あゆのように豪華なセットで大勢引き連れて行うエンターテイメントステージにはどうも共感できなかった。だからずっと行かないことを選んできた。

『A ONE』に触れたあと、たまたまM-ON!で浜崎あゆみの2014-15年カウントダウンライブを観た。これがすっごくよかった。あゆ、これずっと生歌なんだな〜ということに少し驚いたとともに、これなら受け入れられるなと思った。あゆがTwitterなどでみせる、一座を大事にしていること。もちろん知っていたけど、前述したようにあゆのライブはわたしには関係のないことだと思っていたから、一座とかダンサーとかのキーワードは切り捨てていた。だけど大好きなあゆが何年も最も力を入れているライブ、あゆの本気が大好きだったわたしは、歌への本気度合いが軽そうだという思い込みだけではねつけてしまって本当にいいのだろうか?後悔しないだろうか?10代後半、本気になることがかっこ悪いという空気が存在した。あゆはいつでも真逆のことをいう。本気じゃなくちゃかっこ悪い。チケットは取った。あとはわたしが本気になるだけだった。

 

2015.6.6

わたしにとってはなによりセットリストが完璧だった。まだツアーは追加公演を残しているため詳細な掲載は控えるが、行きの電車の中でセットリストを見てしまって思わず表情筋が豊かに動いてしまった内容だった。驚きと喜びと感動が字面だけで瞬時に溢れてきた。とりあえず深く読み込む前にブラウザを閉じ、平静を装って電車を降りた。原宿に降りてからも、こんなのいつぶりだろうというぐらい開演前から緊張しつつ、ライブが始まるのを待った。始まるとすごく長丁場だったけれど、振り返ると一瞬だった。バカみたいな感想だけど、浜崎あゆみのライブは最高であり浜崎あゆみ唯一神だった。夢だったんじゃないかといまでも半信半疑である。

あゆを実際に見る前の思い込みが根底から覆されたポイントは、あゆの絶大な歌唱力と表現力、一座の本気、命綱がなく信頼だけが頼りの命がけのフライング、飽きさせないようにと作り込まれたあゆの衣装替えタイム、全体を包括するストーリーと、そこに込められたメッセージ性。エンターテイメントに特化しているが、そのベクトルは歌・演出・気迫の全方位に向いていた。それを率いるのが劇団や集団ではなく、浜崎あゆみというただひとりの歌手であるところがとてつもなかった。予想外だったのは、一座の人数が思っていたよりも少ないことだった。10数人とあゆで毎週末の本番をやり遂げるんだから、そりゃあゆは座長として、一座のひとりひとりを本気で大事にするわけだ。そうだよね。

本編のテーマは「浜崎あゆみを赦す」だと感じた。「報われる」と表現する方もいたが、とにかく強くそれでいて慈悲深かった。「Duty」と「Mirrorcle World」。そう書くだけで、歌詞のキーワードが脳裏に浮かびドキッとする昔のファンはいるはずだ。白い一枚布のような衣装で裸足で歌い叫ぶ「A Song for XX」、赤いドレス姿で泣くように叫び踊る「Last minute」、パーティーソングのように扱われる「immature」にも、その扱いだからこそあの曲の持つ空虚さと切なさが何倍も増していた。そして「forgiveness」の神聖性たるや…!書くのは大好きなこの曲たちだけに留めておきたいのだが、本当にパーフェクトなライブだった。当たり前だと怒られそうだけど1曲1曲手を抜いたところは一切なく、本編にMCなし、徹頭徹尾本気だった。サイドステージ席だったので真横から観たのけれど、暗転中もステージ上が見えるほどのありえない臨場感で、あゆの歌にも一座の演技にも何度も泣かされた。

 

あゆは、座長としては冷え冷えとするほど孤独だった。「The Show Must Go On.」ステージを完璧に遂行する者として並々ならぬ気迫にあふれ、気高かった。だけど同じ場所には、ともにステージを作り上げる者、ステージを主戦場にしている者、ともに生きる者がいた。それはパフォーマーたちであり、ミュージシャンたちであり、裏方スタッフであり、ファンだった。「一緒に立つメンバー、裏方のスタッフ、そして集まってくれたお客さん。このみんながいればここは成立するんだなって改めて思いました!本当にありがとう」というようなMCがあった。あゆはひとりではなかった。

さらに、あの場所は決して「共感」を求めに行くための場所ではなかった。はっきり言って誤解甚だしかった。あの場所は、あゆが生きている証をこの「みんな」の命に刻み込むための場所だ。あゆとみんなの本気を確かめ合いに行く、命が交わる覚悟の場所だ。大袈裟だろうか?それを感じさせるほどにあゆはすべてに本気だし、こちらもあゆに応えたいと思わせるだけの圧倒的な力があった。

「A Song for XX」からずっとあゆが求めていた居場所は、テレビの中でもファッション雑誌の表紙でもどの街でもなくみんなのいる「ここ」なのだろう。だから浜崎あゆみは並々ならぬ本気をライブに注ぐ。浜崎あゆみはここで生きていて、ここで戦っている。

 

最後に生活者っぽい感想も正直に書いておくと、チケットは8900円。最初は多少尻込みしていたけど、3時間半のステージング、パフォーマンスを超えた場や歌の爆発力にただ圧倒され、コスパめっちゃいい!と思わされてしまった。このツアーもう一度見たいな。とりあえず映像出たら買うわ。わたしでさえセットリストはほぼ全部わかったので『(miss)understood』までなんとなくでも追っていたような人にはとくにおすすめ…!!!だけどいまから予習しても追加公演には間に合うし、なにも知らずにただ圧倒されに行くのもいい。6月下旬の神戸と、7月頭の横浜アリーナ。チケットはまだある。今度は誰が本気になる番だろう。

 

P.S.あゆ、マジでやばい。

 

 

やや(@mewmewl7

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