『君の名は。』を聴く RADWIMPSと新海誠の結びあい
『君の名は。』、大好評である。
新海誠の監督作品が好きで、2007年の『秒速5センチメートル』から観ている身としては期待していたし、主題歌がRADWIMPSという点も良きマッチングだと思っていた。何を隠そう、当時の僕の周りの友人ら(サッカーサークル)は、RADWIMPSをはじめとするROCKIN'ON JAPANに掲載されるようなロックバンドと深夜アニメ、どちらも好んで観ているような人が多かった。
10年も前から自分の周りの人たちが好んでいたものがこうして社会的に注目されるようになったことに驚いている。けど新海誠の作風が大きくヒットを飛ばすこと、それ自体は何も不思議ではない。
正直、今作を観るであろう人は、新海誠監督ファンやアニメファンよりも、RADWIMPSファンを筆頭にしたロックファン、野田洋次郎の動向を注意深く追いかける方が多いと思っていた、公開2週目頃までに観た人の多くはそうではないだろうか。だから少し極端だが、そのような普段新海誠の作品を知らない人たちが、この作品に出会ってしまったことでバズを引き起こしたのではないか。
あるいはこうも言えるだろう。RADWIMPSと新海誠それぞれの世界観が、互いが互いを拡張し、その世界に観る人を引き込んでいったのだと。
『RADWIMPS 3〜無人島に持っていき忘れた一枚〜』の衝撃
- アーティスト: RADWIMPS
- 出版社/メーカー: EMIミュージック・ジャパン
- 発売日: 2006/02/15
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彼らの音楽を初めて聴いたのは2006年に発表された3rdアルバム『RADWIMPS 3〜無人島に持っていき忘れた一枚〜』だった。
その頃の印象はよく覚えている。軽快かつノリが良かったこと、それである。
彼らの特徴であるミクスチャーロックを基調としたRAD流のサウンドは、軽快かつノリノリに奏でられていた。そこには愛や恋といった根明のモチーフが、独特の言い回しですっと耳に滑り込み、リスナーの心を動かした。それが彼らが人気を掴んだ一番の理由だ。
そして野田洋二郎が、ボソボソと寂しいことや暗いことを多少ひけらかして歌っても、こちら側が「その通りだ」と思ってしまう理不尽さがあった。これを知らない人が見れば「なんでこの言葉に琴線が触れるの?」と言いたくなるだろう。だが、俗に言えばポップ・ミュージックならではのマジックが彼らにはあったと言える。
『絶体絶命』『×と○と罪と』の葛藤
- アーティスト: RADWIMPS
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彼らの最高傑作であり、転機となった作品といえば『絶体絶命』だ。
それまでの彼ららしい軽快さに、「携帯電話」でのカントリー、「G行為」でのヒップホップ、「狭心症」でのブルースといったように、様々なサウンドを彼らの流儀で奏でているのが耳に残る。収録曲すべてがノリノリかは疑問符が付くところだが、エモーショナルを軸にすれば、このアルバムは過去最高の爆発度を誇る。抑えめと強め、ハードさとソフトさ、シャープさとナイーブさ、そういったサウンドの抑揚が明確なのだ。
「狭心症」はその点において白眉の出来だ。 「いっぱい」という言葉がこれほどまでに重々しく聴こえるのは、野田の呟く声と楽曲の良さ、何より抑揚の利いたサウンド、それらが織り成す魔法に他ならない。
歌詞については一悶着二悶着、ファンの間では賛否両論の節もあるだろう。野田が「たった1人の女性への愛情表現のためにアルバム4枚を費やした」と語るのを考慮すると、前作『アルトコロニーの定理』の時点ですでに野田はその女性と別れているということになるだろうか。
綴られた歌詞には「自分の世界」と「キミの世界」の繋がりを念頭にした視座のままだが、根の明るさは皆無だ。はっきり言えば、根暗と言っていい。
「キミ」とハッピーエンドを迎えることはなく、それ以前に「自分」は一人きり彷徨い続け、アイデンティティーを模索する。「狭心症」のリアリティは異常な影となって心を突き、「G行為」の自己が錯乱していく様は歌声とサウンドが相まる。その様はエミネムに瓜二つ、あらゆる経験を経た自身の半生そのものをしたためたようでもあった。
こうしてみると、彼らの音楽へのストイックな姿勢と野田自身が抱えていたヒリヒリするほどのリアリズムが浮き彫りになったアルバムなのがよくわかる。
しかし、なぜ彼らはそこまでしてストイックかつリアリズムに傾倒していったのか?その点についてはここで語られているとおりだ。
僕があのアルバムで見せたかったのは、あくまで平和ボケした、何の保証もないところに成り立っている絶対的な安心感への問いかけだったんです。戦争から60年以上経って、何かが淀んでるのに、必死で隠して、澄んだ空気の中で生きてるような顔をしている。
(『papyrus』2011-10-28 特集「新しい時代の入り口で思うこと」より)
5年経ったいまから振り返ってみても、この危機意識はまさにズバリと言い得ていると言える。2010年代の日本では社会的な問題に対するデモが頻発している、現政府への不信感を野田自身が語ったことはないが、社会事象を考えてみれば理解できるだろう。
同時に彼はこうも言っている。
RADWIMPSファンなら言うまでもないが、彼は毎年3月11日に鎮魂と慰霊の意味を込めて楽曲をアップロードしている男だ。そんな彼にとって、東日本大震災は一種の嫉妬対象なのだろう。これが野田洋次郎という男なのだ。
その後、彼の作品で、この志向性を端的に示している曲がある。「五月の蠅」だ。
当時付き合っていた彼女と別れたことがきっかけになった曲とも噂されているが、いま話している筋に算してみれば、彼にとっては神とも語っていた「キミ」をぶっ殺すのがこの曲、大々的なまでの神殺しだ。ある意味では、一神教から抜け出て無神教徒としてその身ひとつで生きることを歌いあげているのだ。
同曲が収録された『×と○と罪と』には「キミ」への直接的なラブソングはない、自分自身を鼓舞するような言葉のなかに、自己嫌悪と憎悪が入り混じったヘイトがまぜこぜになって歌われる。90年代のMr.Children、00年代のBUMP OF CHICKEN、彼ら2組が一時期通った自己内省と自己強化と同じような道筋を、彼らはこの作品では示しているようでもある。
新海誠との出会い 『君の名は。』を聴く
新海「直接的に震災を描いてはいませんが、僕らには、知識や体験として震災がある。2011年以降、僕も含めて、多くの日本人が「明日は自分たちの番かもしれない」あるいは「なぜ(被災したのは)自分たちじゃなかったんだろう」という思考のベースに切り替わっていったように思います」
(中略)
「あの震災を物語の中心に据えよう、真正面から向き合おうと思ったわけではありません。自分の身近な出来事として感じてもらえる物語を書こうとしたときに、フィクションでありながらも、確からしさを感じさせる舞台装置だった、というのが正直な気持ちですね」
代表作と目される『秒速5センチメートル』『言の葉の庭』、いや『ほしのこえ』『星を追う子ども』も、新海誠がやりたかったことは通じている。
たったひとりの女性への愛情表現、キミに向かう眼差し、ボクに向かってくる眼差し、その眼差しに応えるための葛藤と結実にまつわる物語を描くこと。それはRADWIMPSがデビューした勢いそのままに描いた『RADWIMPS』の4作にも通じる作品性だ。
RADWIMPSと新海誠、アニメと音楽とそれぞれのフィールドではあるが、表現のベクトルも、手を抜くこと無く描き抜く姿勢も、彼らはとても似ているといえよう。
新海氏が以前からRADWIMPSが好きだったことがきっかけになり今回の登用になったわけだが、2011年3月11日以降にかかえていた重み/バックグラウンドや彼ら二組の似通った作風を見てみると、まるで運命的な出会いだったようにも思える。
「君の名は。」の作品評はnoteにも書いた。よろしければ読んでみてくれるととてもうれしい。
ラストシーンに至るまでのドラマを見届けて、「なんでもないや」がエンディングに流れるなかで思うのは、今作で新海誠が描いたのは、ラブストーリーの皮をかぶってはいるものの、自然と起こりうる人間の記憶の忘却に対して、人と人との結びつきをもってして抗う姿だったのではないだろうか。
特に、今作の2人が互いに対する記憶を無くし、好きという気持ちそのものを無くしてもなお、互いを大切な存在と捉え、出会おうとする点を見過ごしてはいけないだろう。好きだ惚れた付き合ったで終わるような単純なるラブストーリーの枠組みでは語れないと気づいたとき、バックグラウンドに潜んだ悲しみが顔を向ける。
もう一度断っておくが、本作は恋愛劇をメインにした作品なのは間違いない。しかし僕にはどうしても、彼らが東日本大震災に対して、またはそれ以降の2010年代の日本に対して1つのアンサーを示したように思えて仕方がない。それはまさに「心が体を追い越していく」ようでもある。
この感覚に火をつけるのは、紛れも無くRADWIMPSの楽曲だ。
RADWIMPSはロックバンドである、そんな彼らが主題歌だけではなく映画の劇伴をも務めている。「なんでそんなことまで彼らが手がけるんだ」と思う方も多いのだが、こう思う人もいるだろう、「えっ!?劇伴もRADWIMPSが務めていたの!?全然気が付かなかった」と。
確かに「夢灯籠」「前前前世」「スパークル」「なんでもないや」の4曲は今作の起承転結に置かれ、その前後で描かれる劇中のムードをこれでもかと吸い込んでいる。「歌声が鬱陶しい!」という声もあるが、彼が歌う「たった一人の相手へ向けられた眼差し」は今作をより色濃く彩っている。
その他20曲以上もあるBGMそれぞれは、これまでのRADWIMPSのディスコグラフィでは表現しきれなかったサウンド感を収めている。
弦楽器とアコースティックギターとフルートがきらびやかに交差する「三葉の通学」、ハネるように叩かれるピアノ鍵盤と室内楽楽器がゆるふわな空気感を演出する「糸森高校」、弦楽器がグイグイと聴く人を吸い込むようにスラーした音色を聞かせる「はじめての、東京」などは、これまでのRADWIMPSの楽曲からは想像できないクラシックとカントリーミュージックの質感を彼らの流儀で奏でている。(とはいってもここらへんの楽曲は野田が一手に引き受けているように思えるが)。「口噛み酒トリップ」「町長説得」でのアンビエントなトラック、「作戦会議」でのマスロックなバンドサウンドも見過ごせない。
また今作にはピアノのイントロが非常に多い、男女の恋愛模様をピアノで描くという古風な風合いはやはりここでも発揮されるが、RADWIMPSの楽曲でここまでピアノが前に出てくることはなかったことを思い出せば、何がしかの変化があったのではないか?と勘ぐりたくなる。
「RADWIMPSと新海誠それぞれの世界観が、互いが互いを拡張し、その世界に観る人を引き込んでいったのだ」と先述したが、今作は劇中のストーリー進行と楽曲収録順がシンクロしており、作品を思い出しながら「これはあの時のシーンだ」なんて思い出しながら聴き浸ることができる。互いの互いによる拡張はここで最たるものになっている。
それがもっとも結実しているのは「スパークル」だろう。この曲、8分54秒のうち4分近くを間奏が占めており、弦楽器とピアノと柔らかい打突音が織りなすそのアンビエントな磁場は、野田洋次郎の歌声とともにしてなんの違和感なく約9分間のマジックを発する。
彼らRADWIMPSは一体この後どうなるのであろう。
「五月の蝿」で「キミ」をぶっ殺した彼らが、改めて今作で「キミ」に向けて歌った、そこに彼らの成長を読み解ける。自身に内在する物語ではなく、新海誠の物語に触れることで、自身とは関係のない架空の物語を生み出すことに面白さを感じられるようになれたとしたら、ポップミュージックを生み出す彼らの一つの成長といえるのではないだろうか。
2016年11月23日、タイトル未定の8枚目の作品が、いまから待ち遠しい。その時、ようやく彼らは革命前夜ではなく、革命当日を歌えるのではないか?
草野(@kkkkssssnnnn)