宇多田ヒカル『Fantôme』
母に捧ぐ、終りと始まりの歌
私たちが始まりと呼ぶことは、しばしば終わりであり、終わることは始まることである。 終わりは私たちの始まりの場所である。( T・S・エリオット『四つの四重奏』より)
もう、何度目だろうか。今年、この言葉を思い出したのは。リアーナは『アンチ』でポップ・スターから一人のアーティストとして道を歩み始め、リアーナの先輩でもあるビヨンセは『レモネード』で黒人として戦うという覚悟を私たちに見せた。また、アントニー・アンド・ザ・ジョンソンズのアントニー・ヘガディはアノーニという名の女性になり、それまでのチェンバーポップな要素を一切捨て、ハドソン・モホークやOPNの共同プロデュースのもと『ホープネス』を作り上げた。すべてのアーティストが今いる場所から、さらになる違う場所へ歩みを進めている2016年。そしてそれは、この作品でアーティスト活動復帰となった宇多田ヒカルにも同じことが言える。そう、この『Fantôme』もまた、終わりであり、始まりなのだから。
2011年以降に配信シングルとして発売された「桜流し」「花束を君に」「真夏の通り雨」、さらにはKOHHや元N.O.R.K.のヴォーカリストでもあった小袋成彬、さらには同期である椎名林檎との東芝EMIガールズ以来の共演など話題は尽かないが、個人的には1曲目の「道」からそのシャープで硬い音作りにまずは驚かされた。本作ではどの楽曲も余分な贅肉は削ぎ落とし、少ない音数ながらも大変スタイリッシュで洗練されたサウンドであり、この辺あたりは国内外のアーティストを数多く手掛けて、宇多田ヒカルの作品であると『HEART STATION』や『First Love -15th Anniversary Edition-』などのマスタリングを担当したスターリング・サウンドの影響が大きいと思われる。しかし、それ以上に、特に全体を通して感じたのが、この『Fantôme』という作品が実にコンセプチュアルな作品であるという点である。
本作の歌詞では「あなた」という言葉が何度も使われ、この「あなた」は時には“心の中”にいて、時には“すぐには会えないとても距離が遠いどこかにいる存在”として歌われる。そして、「忘却」の中で
好きな人はいないもう
天国か地獄
誰にも見えないところ
と、彼女の言葉をKOHHが代弁する。ここまで言えばお分かりだと思うが、ここでいう“あなた”という存在は宇多田ヒカルの母である藤圭子の事である。現にインタビュー等でも本作は“母に捧げた”という趣旨の事を語っており、そのように考えた時に本作のジャケット写真を見ると若かりし頃の藤圭子と大変よく似ているという事に気が付かされる。さて、この作品が母親についての物だと考えると一つ疑問が生まれる。それは、なぜ幻影とい意味の『Fantôme』という言葉をアルバムタイトルとして使ったのかという事である。それを説明するには時計の針をあの日まで戻さないといけない。そう、6年前のあの日まで。
嵐の女神 あなたには敵わない
心の隙間を埋めてくれるものを探して 何度も遠回りしたよ たくさんの愛を受けて育ったことどうしてぼくらは忘れてしまうの
『Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.2』Disc2の1曲目に入っている「嵐の女神」は彼女の母親に対しての思いが綴られていた曲であった。それまでも「BE MY LAST」など断片的に母親の事を語られた歌はあったのだが、全編を通して歌われた曲はこれぐらいである。そして、この曲が世に出た2010年、彼女は私たちの前から「人間活動」という名目でアーティスト活動を休止した。誰もが「いつ彼女が戻ってくるか?」と期待に胸躍らせていたが、そんな最中、出てきたニュースは彼女の母、藤圭子の訃報であった。もう、彼女の歌声は聴けないのでは、そんなことを考えていた翌年、彼女は結婚し妊娠。そして、2015年に出産し、宇多田ヒカルは母になった。
そんな母となったタイミングで母に捧げた作品が発売された。そう考えれば、この作品で彼女は“母の幻影を断ち切り、一人の人間として独り立ちをする”ということを思い制作したのではないだろうか。そのように考えると本作がコンセプチュアルに母親に向けた作品であることや、1曲目に「道」をもってきて「桜流し」をラストへ持ってきた事も自らに向けてのメッセージだと説明がいく。「桜流し」の最後の歌詞で、彼女は天国にいる母へむけて、自分の決意をこのように歌う。
どんなに怖くたって目を逸らさないよ
全ての終わりに愛があるなら
そして、「桜流し」の後、CDは1曲目の「道」となる。そう、終わりは始まりの場所へ通じ、その場所から歩みを進めるのだ。悲しみ、苦しみを乗り越え、自らの呪縛を取り払う意味での『Fantôme』。一寸先が闇なら、二寸先は明るい未来、宇多田ヒカルの新たなるスタートは今、始まったのだ。
ゴリさん (@toyoki123)