Julian Casablancas + The Voidz『Tyranny』
未知の音楽に遭遇した時に僕らができることは主に2つある。1つは過去と比較すること。未知ゆえに比較できる対象が思い当たらなくても、少しでも頭に思い浮かんだものを羅列する。サウンド、ジャンル、歌詞だけでなく、登場した背景、付随する映像やパッケージ、それから1stインプレッションも一考に値する情報と言える。たとえ一見まったく似ていなくても、少しでも共通性を感じるならリストアップする価値はある。それが例え音楽でなかったとしても。そしてもう1つは比較を諦め、ただ感じることだと思う。
結局のところ、僕らは記憶の鎖から抜け出すことはできない。新しい音楽と出会った時、自らの頭や身体に蓄積された音楽の経験から似たような事例をリストアップし、それが「どこまでアップデートされたか」で音楽から得られる興奮を推し量っていないだろうか?新しいガールズバンドと出会った時、チャットモンチーや椎名林檎と比較してしまう自分がどこかにいるのではないか?男性シンガーソングライターがテレビ番組で自分が作った歌を高らかに歌う姿を見て、ミスチル桜井やゆずの影響を考えてしまうことはないだろうか?(そしてそれは「すべてのロックはビートルズのパクリである」という結論に行き着き、果てにはビートルズさえ誰かのコピーをしていたという事実に突き当たる)
音楽の感動とはそんなアップデートの多寡だけで決めれるものではない。それはわかっている。しかしジバニャンやきゃりーぱみゅぱみゅのように3歳児を問答無用で躍らせるようなポップの魔力という例外を除けば、僕らには「踊れる」という要素以外の何を判断基準にして音楽を楽しめばいいのだろう?そもそもこの音楽は楽しめるものなのだろうか?
つまり今回、ジュリアン・カサブランカスがやりたかったことは、音楽を楽しむ人の既成概念を取り払うことではないのだろうか?ロックのリズム、ノイズ、叫び、穏やかなシンセ、意味の分からないアーティスト写真、B級感が漂うMV、そして圧政や束縛を意味する『Tyranny』というアルバムタイトル。ジュリアンがやりたかったことは、今の政治やシステムにNOを突きつけるようなステレオタイプな反抗精神ではないはず。
Julian Casablancas + The Voidz「Where No Eagles Fly」
ありとあらゆる情報が取り込まれ、もはや「音を楽しむ」という意味での音楽の枠内に当てはまるかどうかさえわからないこのアルバムを聴いて、僕が思ったことは2つ。
1つはJ-POP的であるということだ。これは僕自身が邦楽を多めに聴くリスナーであることが影響しているのだけど、このアルバムの過剰感は90年代の終わりのJ-POPに近い。そしてそれがリバイバルしているという意味で、今年リリースされた作品で言えば銀杏BOYZやくるり、椎名林檎のアルバムに近いと思う。過剰なまでに情報を詰め込んだ先に漏れ出る本音を掬い取るように僕はこのアルバムを楽しんだ。(少し話は逸れるけど、J-POPの複雑化は日本におけるプログレ信仰と無縁ではないと思う)
そしてもう1つ。このアルバムは耳で聞くという意味での音楽の枠組みにありながら、とても視覚的なアルバムだということだ。容SF映画に近い情報量を持つアルバムだと思う。個人的には「マトリックス・レボリューションズ」での現実の空が描かれるシーンを思い出した。あまりに複雑怪奇で、批評軸さえ揺らぐようなこのアルバムを聴きながら、ふと僕は「空って青いんだな」と思った。なんとなくだけど、とても日本でウケそうなアルバムだとも思う。
Julian Casablancas + The Voidz「Human Sadness」
音楽を「楽しい」「踊れる」のようなごく一部の快楽だけで取捨選択する流れに抗うアルバムだと思う。
ぴっち(@pitti2210)