スピリットオブジャパニーズロック そしてディストピアを謳う 前編

いつも書いてます、草野といいます。今回は、現代思想家の東浩紀さんと批評家の佐々木敦さんの2人で開催している

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こちらの第8回 『文化について書くことで状況を語り得るのか』講師:さやわか 

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に影響されたものです。本当はもっと深く広く調べ上げて書く題材でしょうが(というかそうすれば絶対におもしろいはずですよねこれ)、書ける範囲でとりあえず書いてみたら、なんと1万字を超えてしまった……。

なので前中後と3つに分けられています。前編は、一度文脈を整理しました。

 

 

突然だが、僕は小田急線沿いに住んでいる。

新宿から箱根湯本までに伸びる線路、青と銀が特徴のボディを行き来する小田急線の車両に見慣れて、もう何年が過ぎただろう。東京と神奈川の狭間に居を構え、僕は日々を過ごしている。もとは福島県いわき市生まれ、地方ののどかな風景と空気に触れて生きてきた。とあるイギリスのロックバンドは「おれはこの街で暮らして、簡単には出て行けそうにない、ちょっと日向ぼっこしたいし、もっとゆっくりやらなくちゃいけない、でもすごい速さで毎日が過ぎていく」と歌ったが、その気持ちが徐々にわかりかけているところでもある。

神奈川の北部をおおざっぱに横切るように走る小田急線に、緑の電車が走ることがある。緑の電車こと東京メトロ千代田線は、もしかすれば今、日本でもっとも政治的な色合いの強い線路なのかもしれない。

千代田線国会議事堂前駅、その4番出口を出て道なりに歩けば、安倍政権を批判する大規模デモを見つけることができるだろう。以前から小さいながら行なわれていたデモやしばき隊などの活動もあったが、『集団的自衛権を認めるか否か』という日本がこれまで続けてきた平和主義と非戦主義をわけ隔てる問題と、国会審議で垣間見せた強硬な審議進行による違和感によって、安倍政権への批判に纏わる主張と主義が国会議事堂前に集まり、『戦争反対』という声に集約されはじめた。そこでは、メディアを通して晒されている情報以上、想像以上の熱気と威圧感に溢れている。

この熱気は、今の社会への違和、もとい、今『自分が見えている状況』へに違和を訴えていると言っても差し支えないだろう。状況とは、目の前に広がる現実だ。そしてそこから醸し出される理想像、楽観と悲観という空気感に左右されがちな理に基づく想像もまた、光に照らされた建物の裏に張り付く影のようなものとしてある。現実と想像を切り離して、状況を話すことなどできない。

ここで、一歩引いて考えてみよう、『今自分が見えている状況』(≒社会)に対して様々な違和感を抱えることは、平凡に暮らす人々だけに留まることではないだろう。今、話に挙げた憲法解釈の差異という超限定的な問題としてだけではなく、例えば職場の上司のちょっとした行動の是非、ゴミを出す日の前日夜にゴミを出すことが倫理的/マナーとしてよいかどうか……そういった差異でもまったく構わない。そういったそれぞれちょっとした違いや違和感を個々人が内心に抱えることは、同質の重みとなって平等に背負わされていることに気付いてもらえるだろうか。

そうしたミクロな違和感が集まりつつ、一つの状況≒マクロとなす、そんな自然で当たり前として起こっている様を、いわゆるアーティストといわれる人達は一つの芸術に込める。アートや芸術に生きるクリエイターたちは特に、2011年の東日本大地震以降から始まり、前述した大規模なデモ活動へと連なることで炙り出される、現代社会への大きな違和と市民意識の微々たる波を、一つの作品として鮮やか封じ込めることに成功しているようだ。

ロック・ミュージックはカウンターカルチャーでありユースカルチャー、そう言われ続けていったい幾年が過ぎただろう。反体制、反権力、反主流、反既存、対抗文化、世界文化史のなかでも最もカウンターカルチャーとして機能してきた。言わずもがなだが、ロックという音楽はイギリスやアメリカの海外文化のなかで生まれたものであり、日本に渡来してきた。

だが現在、SEALDsが「安倍政権をぶっ倒せ」と叫ぶこの時に、日本のロックミュージックは彼らになにか加担しただろうか?、安倍政権にノーを突き立てよう!という大きなムーブメントがロック側から起きただろうか?、少なくとも僕は、反原発を掲げたフェスのような形で見て取ったことはない。これを書いている2015年10月19日、DOMMUNEにてSEALDsのリーダーである奥田愛基と、THE HIATUS/MONOEYESの細美武士とTHE BRAHMANTOSHI-LOWとが共演しているのが、最も大きなトピックだとは思うが。

今回、この語りで軸となるのは、 『文化について書くことで状況を語り得るのか』ということだ。つまり、『邦楽ロックは社会≒状況について語り得てきたのか?』、そうであるならば、『なぜこうした複雑かつ断絶的な関係をもってしまったのだろうか?』ということだ。ある意味では、邦楽ロックを整理していく作業になる。

一度時間を巻き戻し、ロックミュージックと共に軽く振り返ってみよう。

(続きます)

 

 

草野(@grassrainbow