チャットモンチー『Magical Fiction』

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破壊の末に戻ってきたらしさ

先日ブックオフでマンガを漁っていた時「あれ?チャットモンチーみたいな曲だけどもしかしてこれチャットモンチー?」みたいな曲が流れてきて、Shazamで確かめたら本当にチャットモンチーだった。チャットモンチーらしいチャットモンチーの曲を聴いたのはいつ以来だろう?

もちろん、チャットモンチーがこれまでずっと活動してきたことは知っている。高橋久美子脱退後の『変身』も、サポートを迎えた『共鳴』も一通り聴いていた。でも誤解を恐れずに言うなら、2011年以降チャットモンチーは変わり続けていたし、さらに言うなら高橋久美子がいた『YOU MORE』の段階でチャットモンチーはぶっ壊れていた。

そうなると、そもそもチャットモンチーらしさって何?という話になるのだが、僕の意見をいうなら「淡々としているけど切ない」ではないかと思う。そんなことを言ったら「『ハナノユメ』のどこが淡々?」とか言われそうだし、ポップだったりロックだったりエモかったりするチャットモンチーもそれぞれ魅力的だけど、でも僕の中ではカップリング曲であったり、アルバム半ばくらいの「落ち着いてるのにどこか切ない」曲がチャットモンチーの原風景としてあるのだ。

そして個人的に言わせてもらうなら『YOU MORE』以降のチャットモンチーはすでにぶっ壊れていた。ブレーキが壊れアクセルは踏みっぱなしになり、切なさなんて微塵もなくなっていた。だから高橋久美子は辞めたし、残された二人もチャットモンチーという屋号を残すことだけで必死でチャットモンチーらしさなんて考える余裕はなかった。

そして2人になった彼女たちはさらにチャットモンチーを破壊し尽くした。普通ならサポートドラマーを招いて再始動すれば良いものの、2013年の『変身』ではなぜかあっこがドラムにコンバート。それどころかえっちゃんまでマイク片手にドラムを叩くという男以上に勇ましい演奏を見せつける展開に。2015年、10周年ということでようやくサポートを加えたと思ったら、なぜかハイスタの恒岡章the chef cooks me下村亮介を迎えた男陣、そして北野愛子と世武裕子を迎えた乙女団という2種類の編成を用意する始末。

でもだからこそ今でも時々「チャットモンチーはあの3人でなくちゃ嫌」と思ってしまうのである。あれほど違った形を追い求めながらも頑なに3ピースを避け続けているのは今でも彼女のことを待ち続けているから、というのはファンの一方的な願望に過ぎないのかな?

「Magical Fiction」でえっちゃんはこう歌う。

足りない気がしてる?
まだあの風景をさがしてんのかい
待ち人はもういない
さぁ 新しい靴の準備をして

全部悲しみ消える呪文
どんな後悔にも永遠のさよならを バイバイ
これがいつの時代も必要な薬

もうあの頃には戻れないことはわかっている。そしてそれを望んでいるわけではないことも。4人編成という形を2バンドも試しながら、それでも打ち込みを用いてまで2人体制にこだわるのは、彼女たちの言葉を借りるなら「よりワクワクするから」なのだが、それでもその座席を空けて待っているからと解釈する余地くらいは残っていないのだろうか?*1

もちろんあの頃とは違う。だけど激動の時期を通り過ぎて、ようやく切なさを感じさせてくれるチャットモンチーが戻ってきた。「さよならGood bye」を感じさせる表題曲も最高だけど、カップリングの欲望むき出しの「ほとんどチョコレート」もチャットモンチーらしい。


ぴっち(@pitti2210

*1:とか書きつつ、作詞したあっこ本人は「去年の『M-1グランプリ』を見たときに書いた歌詞」とか言ってるが

チャットモンチー『変身』

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過去と今を繋ぐ魔法

2012年にリリースされたチャットモンチーの5thアルバム『変身』は魔法がかけらた作品だ。そしてその魔法により、これ以前/以降でチャットモンチーの存在定義が変わった作品でもある。

そもそもチャットモンチーはどんなバンドか。シンプルなギターロックをフォーマットに、90年代におけるWhiteberryやZONEのようなアイドル的なガールズバンドではなく、ロックバンドとしてのガールズバンドというスタンスを2000年代に確立したバンドである。そして彼女たちのフォロワーで2010年代以降ガールズバンドを飛躍させたのがSHISHAMOであり、SHISHAMOの今の活躍もチャットモンチーがいなければ無かった……

……みたいに思われがちだが、チャットモンチーの楽曲はまったくシンプルでではない。より正確に言えば、巧みに変拍子や自在にテンポを変えながら楽曲そのものはシンプルに見せる秀逸なバンドだった。そしてその要がドラム高橋久美子であり、彼女のビートがあったからこそチャットモンチーは他のガールズバンドから一歩抜け出た存在になれたのだ。個人的には彼女たちのフォロワーで2010年代このビートを先鋭化したバンドこそtricotであると思うし、そのように考えるとdetroit7の山口美代子が福岡晃子にドラムを指導していること、そしてtoricotのサポートをしていることにも合点がいく。

さて高橋久美子というバンドの要を失って初めて作られたアルバムがこの『変身』である。普通に考えれば今までの魅力は失われるし、実際にギターとベースをやっていたチャットモンチーの二人がドラムを叩くこともあり、過去作に比べてビートは単調だし、繊細なグルーヴも感じられない。しかしそんな欠点を補って余りあるほど今までにない魅力で溢れている。

はてな」や「きらきらひかれ」といったような衝動やエモーショナルをそのまま音にぶつけてるナンバーやシンプルなドラム・ビートとオルタナなギターサウンドが印象的な「満月にほえろ」など本作は構造で魅せるチャットモンチーとしては珍しく、骨太で力強いロックなサウンドであふれている。

また「きらきらひかれ」でASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤正文、「コンビニエンスハネムーン」で奥田民生といった外部のアーティストをプロデューサーに迎え入れ、さらには「初日の出」「ウタタネ」ではエンジニアとしてジム・オルークを招集するなど積極的に外部と交流した事で過去作にない手触りを持つ作品に仕上がった。この「チャットモンチーとしては珍しく」や「過去作にはない」というのが本作の魅力であり、これこそチャットモンチーにかけられた魔法でもあった。

彼女たちは高橋久美子を失ったあと、解散することも休止する事なくバンドをやり続けた。しかもサポートを入れずに二人編制で。それはこのままでチャットモンチーを終わらせないという意地ももちろんあったと思うのだが、それ以上に2人になった事で3人ではできなかった無限の可能性への挑戦でもあった。

福岡「私たちもスリーピース時代のチャットも絶対的にカッコいいと思っているけど、ツーピースになって全く新しいバンドに生まれ変わろうと思ったし、そうしなきゃ意味がないと思っていたので。*1 

まったく新しいバンドになろうとした意気込み、それこそが今までにない力を生み出し1年で5枚のシングルと本作を作り出した。それはチャットモンチーが危機を乗り越える為に発生した魔法によって突き動かした結果だと言ってもいいのかもしれないし、新しいチャットモンチーへと生まれ変わる賭けに勝てた事を証明したとも言える。もはや3人であった頃の呪縛はない。魔法がかかった彼女たちは無敵である。それを証明するアルバムこそ『変身』なのだ。

と、ここで終わればこの拙い文章を綺麗に締めることができるのだが、そう上手くいかないのが世の常。どんな魔法もいつかは解けてしまう。チャットモンチーも同様で二人にかかっていた魔法は『変身』後に訪れた1年近くの活動休止期間ですっかり解けてしまった。そして2014年以降はどのような編成/楽曲が自分たちに合うか、思考を柔軟に働かして試行錯誤していった。その試行錯誤の過程こそ『共鳴』であったし、ライヴだと武道館における10周年記念だったと思う。私自身この時期のチャットモンチーもおもしろいと思うのだが、どうしても『変身』の頃に期待したあのマジックが再び宿ってきてほしい。そんなことを思っていた矢先である。シングル『Magical Fiction』を聴いたのは。

チャットモンチーはまたも二人で活動し始めたのだ。表題曲「Magical Fiction」はモータウン・ビートを取り込みながらも嫋やかでポップな仕上がりとなっているし、アンビエントサウンドスケープを持ちながらもチョコレートの事しか歌わない「ほとんどチョコレート」などあの頃と変わらず二人でありながら自由に新しいことを突き詰めてようとしている。それはまるで『変身』の頃に感じていたあの魔法をもう一度取り戻そうとしているかのように。デビュー10周年を過ぎてもなお、スタイルに拘らず新しい挑戦を続けるチャットモンチー。また再び魔法がかかる日はすぐそこかもしれない。


ゴリさん (@toyoki123

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『ソルファ』と『ソルファ(2016)』

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今から13年も前のことだ。地元大阪の高校を卒業し、地方の大学へ入った私は人生初の一人暮らしというものを体験していた。最初の数週間は大阪に帰りたいと思っていたが、すぐに友達ができ、寂しくはなくなった。それからは友達と深夜まで遊んでも、時には自宅で友達と朝まで飲み会をしても、誰にも叱られることのない環境にすっかり甘えてしまい、自由を謳歌していた。ずっとこんな日が続いたら、そんなことを思っていたが大学で試験が始まる7月頃になるとそんな状況は一変した。そもそも勉強が苦手で、大学受験では得意科目2教科とマークシート方式で、ほぼ偶然に合格した事もあり、徐々に周りとの学力が離れていき勉強についていけなくなった。そして、気づいたころには大学も休みがちになり、何をするにも億劫で、何度も家に誘った友達に会う事すらも嫌気がさしている自分がいた。

ある日の事、気分転換に近くのレンタルCD屋へ行った。その時、とあるCDに目が留まった。蜘蛛の巣に絡まった男性と赤い糸を頬杖しながら引く物憂げな女性。「カッコいい」と感じた私はこのアルバムをレンタルした。そのバンドと作品の名前は今でもハッキリと覚えている。そう、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの『君繋ファイブエム』である。それまで吹奏楽部でトランペットをやっていたこともあり、クラシックの曲ばかり聴いていた私はこのアルバムで「ロックってカッコいい!」という認識を持ち、それからというものの、彼らが毎週やっているラジオを聴き、友達に「ねえ、ねえ。アジカンというバンドがいてさ」とアジカンの良さを語るファンになっていた。その翌年には、新しいアルバムが発売されると知って、今までやったことがなかったバイトをやり始め、CDを買った。それが『ソルファ』であった。

家に帰り、パソコンにCDをセットして再生するとスピーカーから「振動覚」の印象的なギター・フレーズが鳴り響く。そこから衝動をそのまま音にしたようなサウンドとボーカル後藤正文の歌声。そして、そのまま「リライト」へとなだれ込むといった完璧な展開が幾度も繰返し、私の鼓膜を揺さぶる。気が付けば本作を何度もリピートしている私がいた。その頃には体調もだいぶと良くなり、周りの友人と普通に話もできるようになったし、何とか大学の授業にもついていけるようになった。今から振り返ると、あの頃の私を支えていたのは間違えなくアジカンであった。

時は流れて、2016年。

この10年以上の間で大学生であった私は30歳を過ぎていた。大学は色々ありながらも何とか卒業して、今は介護の仕事をやっている。去年、人生2度目の一人暮らしを始めたのだが、あの時みたいに自由を謳歌することはなく、朝から晩、時には夜中まで入居されている方の介護を行い、加えてあまり裕福とも言えない給料に「どうやって生活しようかな」と悩む毎日である。結婚もせず、彼女すらいない。楽しみといえば仕事終わりにYouTubeでも見ながら酒を飲むことくらいだ。

あの頃と色々変わってしまったのだが、変わっていないこともある。それはアジカンが好きであるということだ。地方の大学から、地元大阪へ戻った私はライヴハウスでライヴを観ることの楽しさを覚え、アジカンのライヴを幾度となく観に行った。時には一人で夜行バスに乗ってNANO-MUGEN FESに行くこともあったし、翌日の台風の事を気にしながらも横浜スタジアムでデビュー10周年記念ライヴを観に行った。ライヴを見ては感動し、明日も働こうと勇気づけられていたのだが、結成20周年を迎えた2016年の元日。私は部屋の中で大いに狼狽していた。アジカンが『ソルファ』の全収録曲を再レコーディングしたアルバムをリリースをするというニュースを知ってだ。

13年前とは違い、アジカンのことを話せる仲間もできた私は、友達に『ソルファ』の再録のことをどう思うか尋ねた。友人は「過去にやったアルバムを再録するのって意味あるのかな」と否定的な意見であった。私も、学生時代に毎日聴いていた作品を丸ごと刷新されるとなると、今まで「これがいい」と思って聴いていた私自身が否定されてしまうのでは、と考えていた。期待と不安が入り交じるなか『ソルファ(2016)』の発売日当日。CDショップであの時から12年ぶりに同じバンドの同じ名前のアルバムを買った。

その日のうちに、パソコンにCDをセットして再生するとスピーカーから、あの日と同じように「振動覚」が流れた。その瞬間に私の不安は安心へと変わり、徐々に興奮へと変わっていった。「今だからこその『ソルファ』だったんだ。」聴き終えた頃にはそんな思いを抱き、本作を何度もリピートしている私がいた。そう、『ソルファ(2016)』は新しいアジカンを体現するには避けては通れない道であり、彼らの過去と今を捉えた作品だったのだ。

避けては通れない道、これを説明するには彼らがこの作品の前年に出したアルバム『Wonder Future』について説明をしないといけない。ラウドロックをテーマに掲げ制作され、Foo Fightersのスタジオ606で録音し、ナッシュビルのスタジオでミックスした本作はアジカンの中でも荒々しくロックなアルバムである。そして、この『Wonder Future』こそ「生まれ変わったアジカンの出発点」とも言える作品なのだ。

アジカンといえば私が出会った『君繋ファイブエム』やその前の作品に当たる『崩壊アンプリファー』には「衝動と疾走」というテーマが内包されていた。激しいビートにうねるギター、ボーカル後藤が時にシャウト交じりで歌う、それが私が初めて体験したアジカンであったのだが、時が経つにつれてポップでエモーショナルな作風が強くなり、以前はあった「衝動と疾走」は影を潜めつつあった。しかし、『Wonder Future』には“衝動と疾走”が確かに存在している。しかも、あの頃より力強く、より鋭敏に研ぎ澄まされた形でだ。これは後藤が2014年よりGotch名義で本格的にソロ活動するようになり、アジカンというバンドを続けていく意味を「4人で音楽をやること」だと考え、再度、原点回帰的なロック・サウンドに行きついたとインタビュー等で語っており、CDジャケットをそれまで中村佑介に頼まず真っ白にした事からもこの作品が新たなる出発点にある作品だという事が窺える。

そう考えた時に、新しいアジカンとして原点を見つめ『君繋ファイブエム』の次の作品である『ソルファ』を再録するというのは新しいアルバムを作る以上に正しい択肢であったと思えてくるし、避けては通れない道であったようにも感じる。そして、完成した『ソルファ(2016)』は「振動覚」は勢いとインパルスはそのままで、よりシャープに研ぎ澄まされたサウンドが鼓膜を揺さぶり、続く「リライト」では間奏部分ではよりレゲエ風のリズムが際立ち、さらにリバーブを入れることでダブ感を増した作りとなっている。ラストの「海岸通り」はストリング・セッションも入り大変ゴージャスな作りにはなっているのだが、どの曲も大幅に内容が変化していることはない。しかし、あの頃の『ソルファ』と確実に違う点がある。それは彼らの音の厚みである。

山田のベース、喜多のギター、そして伊地知のドラムのビート。このどれもが、あの当時に比べて音に厚みがあるのだ。それは後藤のボーカルにつても同じことである。2004年に発売された『ソルファ』の後藤のボーカルは確かに衝動的に歌ってはいるものの、やや勢いに任せているところがある。それが好きというファンもいるわけだが、本人もその当時について「歌唱力だけが置いてけぼりをくったまま完成してしまった」と自覚しており、それがこの再録した一つのきっかけだと語っている。そのため『ソルファ(2016)』では勢いに任せることなく非常に丁寧に歌いながらも、オクターブ下で歌声を合わせる事でボーカルに厚みを持たせているのだ。

つまり、本作は『ソルファ』以降活動してきた12年間に培われた技術、経験、さらには『Wonder Future』で原点に回帰した今だからこそできる作品であり、言い換えれば彼らの12年間の厚みが音の厚さになって投影した作品といっても過言ではないのだ。結成20年目に新たなる旅路のステップとして『ソルファ(2016)』という、これ以上ない結論がでたASIAN KUNG-FU GENERATION。過去の記憶と今が刻み込まれた本作を聴いてもなお、「過去にやったアルバムを再録するのって意味あるのかな」と否定的な意見を言うファンがいるなら、私はこんな言葉を送る。

 

あなたにアジカンを愛しているとは言わせない。 

 

 

ゴリさん (@toyoki123

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