渋谷系特集 #2「ピチカート・ファイヴから現在まで受け継がれてるアイコンの話」

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今回は渋谷系の特集という事で僕も一つ書きたいことがあり参加させていただきました。さて、いろんな事を話す前に「渋谷系」という言葉についてもう一度おさらいしましょう。

そもそも渋谷系とは?

渋谷系という言葉はライターである山崎二郎氏が1993年の春にHMV渋谷店を取材したときに生まれた言葉であり、以降「渋谷系」というのは当時ヒットしていた音楽と関係なく渋谷の輸入盤大型レコード店で売れている音楽、または単におしゃれな音楽を指した言葉として浸透、拡散されていきました。

そんな渋谷系の音楽についてライターの川勝正幸氏は「雑誌THE FACEがポールウェラーに与えた称号『レトログレッシブ』ではないか」と語りました。「レトログレッシブ」は言うなれば「過去の音楽から新しい音楽を生み出すこと」であり、それは「バンドマン」的ではなく「編集者」的な側面が強いとも語っており、フリッパーズギターであり、ORIGINAL LOVEであり、スチャダラパーであり、それぞれジャンルは違えど、過去の敬愛していた音楽のエッセンスを自分たちの音楽へ取りこんでいき、またはサンプリングをしていき発展してきました。

さて、今日はそんな渋谷系の中でひときわ光り続けてきた存在、ピチカート・ファイヴについてお話したい。

Pizzicato Five「東京は夜の7時」

 

ピチカート・ファイヴの「形」への執着

ピチカート・ファイヴ(以下、ピチカートと略)と言えば「おしゃれなミュージックの代表」だなんて思われているかもしれないが、実は「形」というものに対し異常なほどのこだわりを見せていたアーティストであった。彼らほどアグレッシブに音楽界のそれまでの形を壊して新しい形を作ったバンドを私は知らない。有名な話だとCDケースである。1989年に『女王陛下のピチカートファイブ』にて世界で初めて透明なトレイを使ったCDケースを使ったことで有名である。

それまではCDトレイは白か黒が通例であったのだがピチカートファイブはそれを透明にすることにより、バックインレイ(裏ジャケット)の裏側にも有効なデザインを施したのだ。他にもPVもあえて白黒にして古い音楽番組を装うたり、時には過去の映画やドラマの動画をそのまま使用したり、時には海外の街を舞台にしたりと自分たちの音楽に合わせで相違が出ないような作りを行っている。

あなたのいない世界で Pizzicato Five - YouTube

そして、ピチカートが一番「形」へのこだわりを見せたのはボーカル、野宮真貴であったのだと私は考える。

 

野宮真貴という存在

ピチカートをイメージした時にだれもが野宮真貴のあの衣装や髪形を思い浮かべる人は少なくないはずである。まさに、ファッションショーのモデルがそのまま歌をうたっているようにすら思えてくる。2代目のボーカルであった田島貴男オリジナル・ラヴでの活動に専念するため脱退し、野宮真貴が3代目ボーカルになったのが1990年の事。その時代から彼女の服装や髪形は当時のファッションから考えると際立っており、高浪敬太郎が脱退し小西康陽との二人体制なった94年以降はさらに加速していった。

Pizzicato Five「Baby Portable Rock

そしてライヴでもファッションにこだわりは強く、野宮のお色直しは軽く10回は超えていた。野宮真貴は時にファッションショーにモデルとして呼ばれることがあり、その際プロのモデルよりも短時間で着替え、なんなら早く着替える指導をモデルに行った逸話もある。

さて、ここで考えたいのは「なぜ野宮真貴がこれだけファッションにこだわったのか」という事である。結論から先に言うとそれは、僕が考えるに野宮真貴という人物を単なる「歌い手」としてだけでなく、ピチカートの「ポップアイコン」としたかったのではないだろうか。

 

ポップアイコンとしての野宮真貴 

ポップアイコンという言葉がある。大衆文化おけるその時代を代表する人物像のことを指し、音楽界で言うとプリンス、マイケルジャクソン、マドンナ、最近だとレディーガガもこれに当てはまる。そのすべてのアーティストに共通する特徴の一つとして世間が目を惹くファッションというのがあげられる。野宮真貴もまさにこれに当てはまると考える。

ポップアイコンには2通りある。一つは自らが自分自身をアイコン化してしまう方法。マドンナ、レディーガガはまさにこれに当てはまる。

そして、もうひとつは、他人が完全コントロールして対象者をアイコン化するっていう方法である。そしてこの方法こそ野宮真貴がピチカートでやった事であり、その完全コントロールをしていた他人こそ小西康陽である。

そもそも、ピチカートは様式化されたロック・カルチャーへ反抗として作られたバンドであった。小西自身がロックの「俺が俺が」とエゴを押し付ける事へ嫌悪感から「より匿名性的な音楽がいい」という気持ちから、野宮真貴がフロントに立つことで小西康陽の思想を前面に出せる仕組みであった。

 

ポップアイコンはアイドルと違うのか?

さて、ここで疑問になるのが、ピチカートがやったポップアイコンは既存のアイドルとどう違うのかという事である。

僕の考えをいうと、「アイドル」というのは「自身が持つ初々しさ、かわいさとかを生かすというコンセプトで動かしていく」のだが、ピチカートがやっていた「ポップアイコン」は「『その人らしさ』というの消して、いかにプロデューサーのパペットとして動けるか」この点である。そして、そのためには衣装はもちろんのこと、小西康陽の楽曲を彼の思うがままに歌える存在が必要であった。ピチカートの曲を歌うには相当の技量が必要である。それが完璧に歌える人物であり、小西康陽の要求にすべて答え、個性を受け入れた人物それが野宮真貴であったわけである。

 

ピチカート・ファイヴの終焉そして時代は現在へ

さて2001年に一つの時代の終焉を迎える。

ピチカート・ファイヴ解散」

2001年1月1日に『さ・え・ら ジャポン』を発売しその年の3月31日に解散してしまったのだ。

Pizzicato Five「さくらさくら」

これに関して小西康陽は「辞め時をずっと探していたのもある/『さ・え・ら ジャポン』が今までで一番いい。じゃあ今やめなきゃ」と言っている。結成から16年、確かに長いと言えば長いのかもしれない。しかし、あまりに突然の幕引きであった。これ以降ピチカートの残した財産は色々の形で音楽界に反映してきた。中でもポップアイコンを音楽界に浸透させたことへの評価は大きいのではないだろうか。そしてこのポップアイコンを00年代以降飛躍させた人物がいる。中田ヤスタカである。

 

中田ヤスタカがやろうとしてきたこと

中田ヤスタカがやろうとしてきたことは個人的には音楽のジャンルは違えどピチカートと同じだったのではではないだろうかと考える。特に自分は完全に裏方に回りプロデュースする女性をフロントに立たせるという点においては同じだと思える。そして中田ヤスタカがさらにポップアイコンとして進化させたのが声に関しての補正技術を使用した事である。

先ほども書いたがアイコン化するには完全コントロールしなければならないし、そのためには声を思うがままにできる人物じゃないと成立しないという事を前篇で話したと思う。2000年代技術が進化し声を思うがままに操れる事に目をつけた中田ヤスタカはその技術を使い一つのアイドルをポップアイコンに変えてしまった。それがPerfumeである。

Perfumeポリリズム

 

Perfumeがアーティストでいるわけ 

Perfumeはアイドルなのか?アーティストなのか?この質問は多分この文章を読んでいる方なら一回は議論したことある命題ではないだろうか。元々は広島のアクターズスクール出身でありアイドルとして活動していた。中田ヤスタカと組むようになってもしばらくは可愛さあふれるポップンナンバーを歌い続けてきた。

Perfume「ビタミンドロップ」

しかし彼女らがメジャーデビューした頃には未来型の衣装を着てエレクトロサウンドに身を包んだいまのパフュームの原型が完成する。この時点でだいぶんパフュームのポップアイコン化は進んできたのだがギリギリアイドルのラインを保てたのは歌詞に女子高生の使う言葉や女の子目線を歌詞に取り入れ今の世代の女の子感を演出していた。(この歌詞書いてたのも中田ヤスタカではあるが)

Perfume「コンピューターシティ」

そして、「GAME」以降はこの《女の子》の部分が《女性》という形になっていき、小西康陽がピチカートでやってきたポップアイコンになってきたのだ。ちなみにさきほどPerfumeは未来型であるが、これがメルヘン・おとぎ話になると、きゃりーぱみゅぱみゅへと変わる。そして、さらに時代は進み今度は誰もがピチカートのようなポップアイコンを作り操る時代へとやってくる。それが初音ミクである。

livetune feat. 初音ミク「Tell Your World」

 

初音ミクがもたらした全世界ピチカート化

キャラクターボーカルシリーズの第一弾であった初音ミク自体は2007年の登場であった。当時はビジュアルと年齢・身長・体重くらいしか決められていなかったこの「初音ミク」という名のキャラクター、ニコニコ動画の影響もありぞの存在は瞬く間に拡散されていった。ただ、初期の頃はいわゆる萌え系の曲が多く、時にはネギなんかを持たされることも見られたのだが、本格的に初音ミクがキャラでなくアイコンとなったのが、2008年。

発売元のクリプトン社が「ピアプロ」という投稿サイト開設し、キャラクター使用に関してのガイドラインを作り初音ミクに関してのルールを設け、3DポリゴンCGツール「MikuMikuDance」が出来たことにより、2次元の絵であった「初音ミク」は音に合わせ踊り始めた。そして、supercellサウンドコンポーザーにもなったryo氏がニコニコ動画に投稿した楽曲「メルト」の登場により、商業音楽としても耐えうる、高クオリティーの楽曲も作れることを証明したのだ。

初音ミク「メルト」

以降の初音ミクだけでなく、誰がこの楽曲を作ったのかという、いわゆる「○○P」というプロデューサーにも目を向けられ始めた。誰もが手軽に使え発信できるポップアイコンはここに完成したのだ。

以降、当初ねぎを持った「初音ミク」は単なるキャラクターではなくポップアイコンに変わり、今では日本だけでなく世界でその人気は拡散。パリ・シャトレ座で公演やレディーガガのオープニングアクトとしてライヴ行ったことは記憶に新しい所である。

 

最後に

さて、中田ヤスタカ初音ミクといったように、ピチカートファイブが行ってきた『ポップアイコン』というのは後世にも伝えられているという話を進めた。このように考えると小西康陽がやってきたことが、いかに後の音楽界に影響していったか、その重要性が分かってくる。もし、ピチカートがいなければ、渋谷系のムーブメントの中で小西康陽のやり方が受け入れられなかったら、今日の音楽界(とくにポップ系)は初音ミク中田ヤスタカも受け入れられていたかどうかは定かではない。

もちろん、今回はアイコンという点で話してきたが、音楽的にも編集というものを巧みに活用し、構成に影響を与えたのは素晴らしいことである。そして日本で海外から目を向けられる存在であった。そういう意味でもピチカート・ファイヴは今まで以上に評価されるべきバンドである私は思う。

 

参考・引用文献

 

 

ゴリさん(@toyoki123

ダラダラ人間の生活